雨除け用にフードを目深に被り、純也は駆け足で振りしきる雨の中を進んでいた。傘を差して歩くのも億劫で、畳んで片手に持っている。それでも走るには邪魔で、叶うならば、このまま投げ捨てて家路を急ぎたいところであった。しかし日頃から刻み込まれた倹約家としての性に咎められ、実行に移す勇気はない。
服はすでにずぶ濡れで重みが増し、肩にずっしりとした感触があった。走るたびにジーンズからは雨がふり撒かれ、踏み割った水溜まりからは飛沫が撥ねる。
髪から滴る水滴も煩わしく、純也は走りながら髪を掻き上げ、後ろに撫でつけた。体力はあるが、水に足を絡め取られ身動きがしづらく、普段よりも体が疲労を訴えるのが早い。
いくら走っても、雨は絶え間なく体を打ち付け、呼吸も乱れ、自由に身動きすることも面倒だ。どこか溺れているようでさえあった。
今日は水難の相が出ているのかもしれない。否、日付はすでに変わっているので、昨日も今日も水難の相が出ていると思われる。また、女難の相も出ているはずだ。
総じて言えば、今日の純也の運勢は大凶だった。美景のストーカーに関してはもう日常なので省くが、洗濯物を干している時に天気予報は外れ雨が降り、隣人の女性には荒唐無稽な妄想話を真面目顔で語り聞かされ、こんな雨の中先輩から呼び出され、その雨の中を今度は駆け足で帰らなければならない。
特に隣人の妄想話は、この一連の不幸な出来事に輪をかけて酷い。最も嘘だと信じたいものだ。
早く忘れてしまうのが自分のためだろうが、頭にこびりつてどうしても離れてくれない。気を許せば、彼女の話が頭の中を巡り、記憶がより鮮明なものになっていく。忘却を認めないとでもいうように、意識へと強く訴えかけてくる。
未だに視界の端にちらつく隣人の鋭い表情に、純也は走りながらため息をついた。
「クッソ……本当にどうなってんだよ」
愚痴を吐き、鼻先に落ちてきた濡れた前髪の一房を、純也は再び後ろへと撫でつけ足を速める。
住宅街の風景が視界の端を掠め、流れ去っていく。輪郭は崩れていくのは、自身の視野が狭まっているせいだろうか。
程なくして、純也は外人墓地を視界に捉えた。
純也の住む里見、また里見の属する阿原市には在日の外国人が多く、また大多数が欧米人である。その関係か、里見町にも大規模な外人墓地が用意されていた。
別に歴史的背景が関係しているわけでも、里見に外国人が興味を惹くような文化があるわけでもない。だというのに何故か外国人が多く、外に出れば望まずとも外人を見ることができるのだ。
里見の蔵谷(クラヤ)の外人墓地はその中でも大きな部類に入る。近辺に外国人が多く住んでいるせいもあるのかもしれない。
青々とした緑が茂りながらも丁寧に揃えられた草木により、墓地は一種の芸術品のようにも見える。日本では見慣れることのない西洋風の墓石と相まって幻想的でさえあるだろう。子供が見れば、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだような錯覚さえ覚えるはずだ。しかし、それも蒼穹に日輪が輝く間のみの話。太陽が西の空へと追われ、宵闇が覆い被されば、青々とした緑も鬱蒼とした暗緑(アンリョク)へと転じ、深い闇が恐怖を彩る。
美しい墓石はその作り込まれた外見により陰影を深く刻まれおどろおどろしく、今にも埋葬された者が棺を内側から破砕し、のしかかる土を掘り起こしてきそうである。整った木々の枝も雨の中、揺らめく姿は恐ろしく、手招きをしているように見えてしまう。それでなくとも、今日は土砂降りの雨だ。暗雲に空を鎖され、果てなき闇を溜め込んだ伽藍堂のような墓地は不気味でしかない。
雨を強さを増す一方だ。この墓地を真っ直ぐに突き抜けると、マンションへの近道になる。普段、純也は何一つ関わりのない墓地へ踏み入ることに後ろめたさを覚え、大きく迂回する道を選んでいたが、今日は話が違う。そう思っていたことには嘘はないのだが、こうして実際に目の前にすると背筋を冷たくするものがあった。
このままホラー映画の撮影に使えそうだ。シャッターを切れば、いるはずのない半透明の人物が必ず写り込みそうでもある。
純也は自ら潔く認める。彼は今、墓地の外観に気圧され、久々に幽霊というものへ恐怖心を抱いていた。
高校二年生にもなって情けないことは認めよう。しかし、幽霊という非科学的でどこまでも荒唐無稽な存在を一切信じていない純也が、幼き日の恐怖心を解凍してしまうほどに外人墓地の風景が恐ろしいものだということを理解してもらいたいところだ。
雨に濡れ、腐肉のようにぬかるんだ地面、闇に溶け込む墓標、ぽたりぽたりと水滴が垂れていく音、闇に潜む人影のように揺らめく木々。その全てが恐怖を喚起する。
心霊スポットとしても有名なことは承知していたが、それでもここまで自分が怯えてしまうのは予想外であった。
正直、今からでも進路を変更して、いつも通りの道順で帰りたいとも思うが、それはそれで情けなく思えて退くに退けない。
「……どうすっかな……」
困り顔で頭の後ろをぼりぼりとかいた瞬間、背後で閃光が瞬いた。
「……!?」
数秒遅れて空が割れるような轟音が耳を劈く。肩を震わせ、驚きに目を見開いた純也は、即座に振り返るが、その頃にはすでに暗雲立ちこめる深夜の風景だけしかなかった。
「おいおい……今度は雷かよ」
早朝、登校前に見た天気予報にそんな情報はなかったはずだ。そもそも雨さえ降る予定はなかった。
本当に運がない。なおさら急いで帰るしかないだろう。
稲妻に背を押され、純也は意を決するのであった。
「幽霊なんていない。お化けなんていない。怨霊なんていない。化け物なんていない。怪物なんていない。悪魔なんていない。あと天国もない気がする。つぅか、絶対にいない。有機物と無機物以外の存在は認めない。エネルギー保存とか質量保存とか、そういう物理的法則を無視した存在は絶対に存在しない。よし! 行くぞ!」
ぶつぶつと経文を唱えるように呟き、自らを叱咤激励した純也は墓地へと足を踏み入れるのだった。低い階段を上り、唐草格子の鉄柵――境界線の内側へ踏み込んだ刹那、背筋に刃を突き付けられるような感覚を覚える。
ぞくりと体中の肌が粟立ち、心臓が強く脈打った。まるで氷で出来た腕(カイナ)に抱き込まれるような冷たさが、全身を走り抜ける。
「……なんだ?」
早鐘を打ち、今にも胸板を突き破りそうな心臓を押さえつけ、純也は周囲を見回した。何か不吉な予感がする。自分は勘が鈍いことを自覚している純也にとって、滅多にない感触だった。生まれたばかりの決意を打ち砕くには十分すぎる悪寒だったが、引き下がるわけにもいかない。
視界に映るものを探るが、怪しい何かは見当たらなかった。墓地はいつだって不気味だ。今さら気にする要素でもない。
「お、お化けなんていないぞー……」
一人手を振り上げて、上擦った声で自分に暗示をかけ、純也は再び歩き出す。雨水に湿った草を踏み締めると、ぬかるんで地面に靴底が僅かに沈んだ。
「ノーお化け。ノーモンスター。ノーミディアン。ノーフリークス……化け物なんて存在しない。お化けも存在しない。あと死んだ人間は土に還る。魂の永遠性なんてないない……。質量のあるものだけ存在する……。そう、そうだ。質量のない奴なんていない。あと未確認生命体とか、このご時世のしかも日本にいるわけない」
幽霊の存在を頑なに否定しながらも、純也の足取りは次第に速くなっていく。少しずつ少しずつ歩くという行為は足早になっていき、やがては走るという行為になった。
地面を蹴り飛ばし、森の間を真っ直ぐに突き抜けていく。背後に何かがいるような恐怖を切り捨てるように疾駆するが、反面背中にのしかかる恐怖は大きくなってしまう。
もちろん本当は彼を追う者など存在しない。全ては純也の恐怖が生み出した幻影にすぎない。しかし、それも本人にとっては本物と大差のない現実味を以て感じらるものだ。非科学的な存在はそうやって個々の内側より生じる妄想でしかなく、だからこそそれらはどこまでも突き抜けて非科学的なのだろう。
少なくとも、今この瞬間まで純也の中の空想は空想でしかなく、化け物は妄想でしかなかった。
少なくとも、この時までは。
墓標と樹木だけが連続する世界を走り抜ける純也の爪先に何かが引っかかり、彼は突然均衡を失ってしまう。体勢を崩した純也はそのまま前のめりに倒れそうになるが、何とかバランスを取り直し、蹈鞴を踏みながらも服を汚すことだけは回避する。
「な、なんだよ、一体!?」
動揺した声を上げ、純也は蹴躓いた場所を顧みる。闇の奥に佇むのは木蓮の木だった。根に足を引っ掛けたのかとも思ったが、よく見ると根元に黒い塊が蹲っている。
目を凝らしてみるが、ここからでは影になっていてそれが何なのかまでは分からない。こんな場所に転がっているものの見当はつかないが、見付けていいものが転がっているとは到底思えなかった。それでも放置しておくのも気が引ける。
「まさか、死体が遺棄されちゃってたりとかはしねぇだろうな、こんなド田舎で」
最近町で起こった騒動は無銭飲食くらいだ。殺人事件という刃傷沙汰は長い間、起こっていない。交通事故などは起こっていても、そういった悪意ある事件というものはない平穏な町だ。死体が転がっているようなことはないだろう。
質量のある幽霊は存在しないはずだ。純也は頭の中で自分に言い聞かせ、ゆっくりと木蓮の木の根本へと歩み寄っていく。
踏み出すたびに靴の裏で、濡れそぼった草が擦れ合う音が鳴る。その音は荒々しい雨音に掻き消され、ただ雨だけが存在を主張していた。
近づけども近づけども、根元に蟠る深い黒は移ろうことなく黒く、陰影さえ見出せない。まるで絵画に塗りたくられた黒い絵の具のように全ての光さえ拒絶していた。
包まれた黒が、影ではなく、真実黒であることに純也は気付く。宵闇よりも遙かに深い黒を、それは纏っていた。
眉を顰め、純也はさらに一歩を踏み出したその時、純也の背後で遠雷が瞬く。背中へと降り注ぐ雷光は純也を横切り、木蓮の根元も同様に照らし出す。
白い――西洋人形のような顔を、純也の目が知覚した。
瞬の閃きが見せた幻にも思える映像であったが、純也の網膜には深く焼き付いていた。
幻ではない。現実だ。あれは確かに人形(ヒトガタ)であった。作り物染みた造形の美しさだったが、間違いではない。
黒い髪に黒い服を纏った白皙の少女が木の幹に背を預けていたのだ。
そうと分かれば早かった。仔細が分からずともこんな場所に倒れている者を放っておけるわけがない。
純也は即座に少女へと駆け寄り、彼女の前にしゃがみ込んだ。力なく木の幹に背を預け、苦しげに目を閉じる表情はどこまでも人間のそれだというのに、よくできすぎた顔立ちが精巧な作り物のように思わせる。間近で見れば見るほどに人形のようであった。血の気のない青ざめた肌がより一層その認識を強くさせるのだろう。
「おい! あんた、大丈夫か!」
少女のあまりにも薄すぎる肩に手をかけ、純也は体を揺らす。その体は華奢で、一つ扱いを間違えればすぐに壊れてしまいそうな繊細さを持っていた。
強く揺さぶられた少女の首が抗うことなく前後に動く。
服も地面に広がる長すぎる黒髪も雨水に侵され、柔らかな肢体もまた体温を奪われ氷のように冷え切っていた。
いつからこの場所にいたのだろうか。
「おい! しっかりしろ! 何があったんだ!」
純也の呼びかけに黒衣の少女は微かに瞼を震わせ、ゆっくりと目を開く。
長い睫毛を揺らす瞼の奥には、紅い瞳があった。血を内側に溜め込んだような紅い朱い瞳孔は虚ろで、光を宿していない。
「大丈夫か! 一体どうしたんだ!」
状況を把握できないのか、彷徨う視線はやがて純也を捉え、少女はゆっくりと小首を傾げた。
冷え切り青くなった薄い唇が、微かに動く。紡がれる音はあまりにもか細く、純也の耳には届かない。
「……なんだ? どうした?」
純也の問いに少女は答えない。答える気力もないのだろう。
何かを呟いたかと思えば、また少女の瞼がゆっくりと下ろされていく。
「おい! ちょっと待て! もう少し耐えろ!」
そんな純也のせめてもの願いも聞き取られず、少女は取り戻した意識をすぐに手放してしまった。そんな少女に純也は頭をかき、ため息を吐き出す。
放っておくわけにはいかない。面倒事を抱えていることは間違いないだろうが、このまま放置して帰るという選択肢は純也になかった。
「……どうすっかな……」
家に運ぶべきなのだろうか。少女の身元が分からない以上、家に連れて行って介抱することが最善なはずだ。
しかしそれは厄介事をわざわざ家に招待するようなものだということも分かっていた。
途方に暮れ、純也は冷雨を落とし続ける空を見上げる。頬で雨粒が弾け、鬱陶しい。
「参ったな……」
「観測付(ミツ)ケタゾ」
突然、背後から声が聞こえた。否、背後から聞こえていると純也は認識する。実際に背後から声が聞こえたのではなく、その感覚は聴覚を介さず耳の奥から響いていた。
脳に直接刺激を与えられたような感覚だ。記憶を掘り返すのに酷似している。
馴染みのない不快感に顔を歪め、ゆっくりと後ろへ振り返った。
「……犬?」
乱立する木々の下、いつの間にかそこに存在していたのは黒い犬。犬種はドーベルマンだろう。
滑らかで艶やかな黒い毛並みは美しく、引き締まった体は捕食者のそれだ。しなやかな流線型を描く体躯は風に揺れる柳か、川を流れる水を想起させた。
しかし、声の主と思しき人物はいない。先程聞こえたのは若い男の落ち着いた声だった。犬は人語を発しない。犬に取り合っている場合ではないのだ。だというのに、純也の目は犬に奪われていた。
「……なんじゃそりゃ」
目を見開き、純也は数歩後ろに下がる。
そのドーベルマンの背にはあるべきではないものが生えていた。それは雄大なる翼――鳶色の羽根が綺麗に整列し、尊大に所狭しと広げられていた。
犬にあっていいものではない。犬は地上を駆けるものであって、天空を翔破するものではない。その犬に翼があってはいけないはずだ。
「ホウ、御前、俺ガ認識(ワカ)ルノカ? 暫ク来訪(コ)ナイ内ニ、此ノ世界モ随分ト面白ク成立(ナ)ッタジャネェカ」
有翼の黒犬は冥い双眸を爛々と輝かせ、静かに暗緑の絨毯を踏み締める。声はまた頭の中で反響するもので、外側から聞こえるものではない。それでも、犬から発せられていることを、何故か純也は理解する。根拠があるわけではない。そういうものだと、脳が認識していた。
「犬が……喋ってる?」
「嗚呼(アー)、何ダ? 御前、俺ノ声音(コエ)モ聴覚(キ)コエルノカ? 視覚(ミ)エルダケジャ無クテ、聴覚(キ)コエルトハナ――此奴(コイツ)ァ面白ェ。彼奴(アイツ)ト云イ、此ノ世界モチッタァ進歩シタノカァ?」
「……どういうことだよ、おい……」
饒舌に喋る犬に、純也は肩を竦める。おかしな夢でも見ているとでも言うのだろうか。
夢ならば早く醒めてほしいが、打ち付ける雨の冷たさも、この背筋を這い回る恐怖も、とても空想とは思えない。これは現実なのだろう。認めたくはないが、純也はこれを現実だと認識せざるを得なかった。
「本当ニ認識出来テラァ。此奴ァ良好(イ)イネ、御前面白ェゼ。トハ言ッテモ、現在(イマ)ハ御前ニ構ッテ居ル時間(ヒマ)ガ皆無(ネ)ェンダ。其ノ兎ガ欲(ホ)シインダヨ」
犬は気さくに純也へと語りかける。もしこの犬が人の姿形をしていれば、純也に歩み寄り肩を組んできていただろう。そう思えるくらいに、犬の口調は流暢で馴れ馴れしいものであった。
「兎? 何のことだ?」
彼の親しげな言葉に警戒が緩み、純也は問いかける。少なくとも純也は今日兎を見ていない。当然のようにここにも兎はいない。
「何発声(イ)ッテンダヨ、御前の背後(ウシロ)ニ存在(イ)ルジャアネェカ。其奴ヲ呉レヨ」
くいと、犬は湿った鼻先で――とはいえ、犬の全身がすでに雨で濡れそぼってはいたが――純也の後ろを指し示した。言われた方を一瞥すれば、先程と変わらず木の幹に力なく凭れかかる人形のような少女がいる。
犬の言うところの兎とは、この少女のことなのだと純也は理解する。
相手は素性も知れない犬。人間でさえない。そして、墓地の暗闇に放置された憔悴しきった少女。この取り合わせに怪しさを感じないわけがなかった。
人間のように喋る犬と、兎と呼ばれる少女。あまりにも奇妙すぎる組み合わせだ。
「こいつのことか? 兎ってのは?」
「嗚呼、然ウダ。其奴ヲ連行(ツ)レテ回帰(カエ)ラナキャ行為(ナ)ラ無ェンダヨ、俺ハ。ナァ? 可能(イ)イダロウ?」
確かに、この少女とは類縁(エン)も縁故(ユカリ)もない。どうなったところで気にすることではないだろう。
何より、要求を拒んだところで、目の前に立つ犬がすんなりと見逃してくれるとも思えない。それどころか、純也がどう答えたところで犬は少女を手に入れる心算だろう。
朋友と近況を語らうような犬の口調に反して爛々と輝く黒い目が純也にそれを告げていた。
「あんた、こいつの保護者かなんか?」
「然ウ視覚(ミ)エルッテンナラ、御前ノ眼球(メ)ハ腐敗(クサ)ッテヤガルナ。俺ガ其奴ヲ保護スル理由(ワケ)ガ皆無(ネ)ェダロ?」
犬はさもおかしそうに気のよさそうな笑声を上げる。今までもそうだが、とても犬の口から発せられる音ではない。やはり犬は実際に喋っておらず、声は純也の内側から聞こえているのだろう。だとすると、犬はただここに居合わせただけで、実際は全て純也の妄想なのかもしれない。犬と真面目に会話するほど、自分の頭はおかしくなっていたのか、と純也はこんな状況にも関わらず口元が緩む。これでは隣人をバカにできない。
「だろうな。ついでに言うと、俺の目は腐ってねぇし、見ず知らずとはいえか弱い女性を見捨てるほど人間として腐ってもいねぇ」
純也の答えに、犬は少しだけ頭を下げ、くつくつと咽喉の奥に笑みを押さえ込むような笑声を零した。対して折り畳まれた翼の羽毛は逆立ち、細い尻尾は針金を通されたように真っ直ぐとなっていく。
押し殺し、それでも滲み出ていた敵意が、表層に溢れ出しているのは明白だった。
「嗚呼(アー)、其リャ何ダ? 要約(ヨウ)スルニ、ダ。俺ニ其奴ハ譲渡(ワタ)セ無理(ネ)ェト、手前(テメェ)ハ然ウ発声(イ)ッテルッテ事象(コト)カ?」
それは最後の意思確認なのだろう。ここで純也が少女を渡せば、犬は純也を見逃すのかもしれない。諦めてくれることはないだろう。上手く答えれば、命だけは助かったのかもしれない。それでも純也は、選ばなかった。迷いさえもしなかった。
木蓮の木に寄りかかる、名も分からず、身の上も分からない、見ず知らずの少女を見捨てるなどということは、一切も脳に閃かなかった。最初から決めていた。少女を守ると。
事情は分からないとはいえ、墓地の奥で気を失っている少女を目の前にして、純也の幼馴染はどういった行動を取るのか――考えるまでもない。あの幼馴染は純也が憧れるあの少女は、間違いなく少女を助けるだろう
幼少の頃から純也にとって美景は正義の味方だった。今では口に出すことはなくなったが、何も変わっていない。美景はいつだって正義の味方だ。
だから純也もまた――
「それ以外に聞こえたのか? そりゃお前の耳が腐ってんじゃねぇのか? 人間様が丁寧に教えてやるよ、犬っころ。テメェみたいな化け物の好き勝手にはさせねぇ!」
――正義の味方になろうと思った。
宣戦布告と呼ぶには十分すぎるものだろう。それが分からないほど犬が低能だとは思えない。
黒犬は黙したまま、長い尻尾を左右に振っている。黒い目は純也を品定めするように上から下まで観察し、鼻をすんすんと鳴らした。
「……然ウ呼応(ク)ルカ。然ウカ然ウカ。此奴ァ面白ェ。唯(タダ)、認識(ミ)エルダケジャ相違(ナ)ク、胆力(キモ)モ配置(ス)ワッテヤガル。此リャ良好(イ)イゼェ、十全(サイコー)ダゼ、糞便餓鬼(クソガキ)ィ」
答えは予想していたよりもずっと静かで、また剣呑なものであった。犬は静かに一歩を踏み出し、足下の草を踏み締める。四肢が草を蹂躙し、純也との距離を喰らっていく。
犬の炯眼が不敵に輝き、純也を下から睨め付けた。牙の並んだ口からは唸りが漏れる。
「十全(サイコー)ダゼ、弥(イヤ)、本当(ホント)ニ。手前(テメェ)ノ度胸ハ驚嘆ト感服ニ価値(アタイ)為(ス)ル物質(モノ)ダ。御前ニ敬意ヲ表明(ヒョウ)シ、俺ハ質問(ト)オウ。手前ノ名称(ナ)ッテ奴ヲ」
ゆったりとした歩調で、犬の足下の草が衣擦れのような微かな音を立てる。振りしきる雨の中、掻き消えてしまいそうな音を耳ははっきりと知覚した。空気が張り詰め、微かな物音さえ耳まで届けているようだ。
引き絞られた弓のように、限界まで引き延ばされた空気。心臓が早鐘を打ち時を刻む。犬が歩み寄るたびに鼓動が強くなっていった。
大見得を切ったとはいえ純也はただの学生。目の前に立つ犬の実力を知る術も、力量を量り得る経験も欠如していた。それでも分かっている。目の前に立つ異形は危険であることを。
「鬼灯、純也……」
純也は静かに答える。犬はしばし黙った後に、ふんと鼻を鳴らした。
「良好(イ)イ名称(ナ)ジャネェカ。記憶シタゾ。其ノ愚鈍(オロ)カシキ勇者ノ名称(ナ)。御前ハ本当ニ偉大(タイ)シタ奴ダヨ、但(タダ)、十分(タ)リ空疎(ネ)ェ物質(モノ)が有ッタナ」
分かっていて、抗うことを決めた。せめて、彼女だけでも助け出さなければならない。思い立ち行動を開始しようとした刹那、突如として頭上で一閃の光が瞬いた。
間髪を入れず響き渡る雷音が耳を劈き、純也の体が震える。
轟音の中、眩いまでの光の中で、純也は黒き犬の姿をはっきりと認識する。
それは――死だった。
紛れもない死そのものであった。
雷光に照らし出された全ての形を捉えて理解する。目の前の黒犬は危険な存在なのだと再認識した。
死を与えるモノという次元ではない。その存在自体が、人にとっての死そのもの。死を具象化した存在だった。
彼の視界に入って生き延びた者はいない、という確信。その眼前に立った時点で、死を確定させるほどの圧倒的にして威圧的、何より絶対的である存在感。
万に一つ、ただ一つだけの奇跡が干渉しただけでは決して覆せない彼我の差を直感した。
異形であることは十分に理解していた。それでも、逃げ切ることはできるかもしれない。そんな淡い期待があると純也は思い込んでいた。
しかし現実はどうだ。逃げられるわけがない。この犬は違う。そもそも遭遇してはいけない存在だ。
「手前ニ決定的ニ欠如(カ)ケテ存在(イ)ル物質(モノ)――其リャ御前、他者犠牲ダ。自身ガ生存(イ)キ延長(ノ)ビル為ニ、自分ガ利益ヲ取得(エ)ル為ニ、他者ヲ切断(キ)リ排除(ス)テル傲慢ナ執着心ガ手前カラハ欠如(カ)ケテ存在(イ)ルンダヨ」
かはは、と犬は愉快そうに嗤う。その体が微かにぼやけて見えるのは、宵闇と水の銀糸が見えた幻なのか。
否、犬の体はぼやけていた。正確に言うのなら輪郭そのものが崩れている。四肢の先が煙となり、また頭部の右側も煙となり燻(クユ)っていた。
尻尾の先もまた黒い煙となり、雨の中で揺れている。実体は少しずつ煙へと変化していくのに対し、その体はいつまでも犬の形をしており、風に流されることもなく草をはっきりと踏み締めていた。
「……其レガ十分(タ)リ空疎(ネ)ェバッカリニ手前(テメェ)ハ此処デ――死ぬんだよ」
その時、ずっと頭の中で響いていた声の最後が、はっきりと純也の外側から耳朶を打ち、聞こえてきた。認識するのではなく、聴覚が知覚したのだ。
犬の口より声が発せられたのはこの時が初めてであり、また声の主はすでに犬ではなくなっていた。それは最早黒い煙――犬を形をした単なる煙でしかない。
煙は旋風に抱かれるように蜷局を巻き、犬としての形状さえ完全に喪失する。蟠る闇にも似た黒い煙の塊は、この世界にぽっかりとできた負の感情の焦点だった。
「我が名を名乗ろう、少年。俺はグラーシャ=ラボラス。爵位は伯爵。序列は二五――第二世界の管理者の一柱にして、三六の軍を従える者。貴様が分かるように一言で言ってしまえば――そうだな、悪魔だ」
黒い煙を、内側から翻った黒い布が振り払い、そこから一つの、一人の、人形(ヒトガタ)が顕現する。医師が纏う白衣と同一の形状をした黒い外衣に袖を通している反面、その内側の服装はダメージ加工の施されたスキニージーンズにパンク調のデザインTシャツというシンプルでカジュアルなものだ。
無造作に伸ばされた癖の強い黒髪を掻き上げ、その青年は切れ長の漆黒の目で純也を睥睨する。端整な顔立ちによく映える残忍な笑みを浮かべた彼は、唇の右端を吊り上げてみせた。
体は鍛え抜かれいるが、かといって筋肉質というわけではない。魅せるためではなく、ムダなく実用的な鍛え方をした者の体つきだといえるだろう。
グラーシャ=ラボラスと名乗った彼は気さくに手を振り、爪先の尖った黒いダブルベルトシューズでぬかるんだ地面を踏み締め、純也へと歩み寄ってくる。
「ハロウハロウ、改めましてこんばんは。本日はお日柄も……あー、よかねぇな……えーと、なんだ? 生憎の空模様では御座いますが、麗しき家畜のご令嬢と勇猛果敢なるうら若き青年に出会うことが出来、誠に良き日でありましょう……て、何言ってんだ、俺?」
「こっちが聞きてぇよ」
細い顎に指貫のグローブを嵌めた細い指をかけ、小首を傾げるグラーシャに、純也は呆れ顔でため息を吐き出す。
あまりにも緊張感のないグラーシャの言動を前にして反射的に声を出してしまったが、そんな純也の態度にグラーシャは楽しそうに笑う。
「なんでぇ? 驚かねぇのか? つまんねぇな。いや、新鮮で面白ぇけど」
「こちとら状況が理解越えてんだ。驚いてたらキリがねぇよ……もう対処しきれん」
確かに犬の威圧感に恐怖したのは事実だ。しかし、突如として人の形となった彼の言動はどこまでも人間臭く、緊張感を保つことの方が難しい。
「そりゃそうだわな、カハハ、お前いいねぇ。マジサイコー。超ウケる」
言いながら、グラーシャは腹を抱えて笑い出す。そんな無防備なグラーシャの振る舞いに、純也の警戒も解けてしまった。異形だったはずのモノが人の形を取り人間同様に動けば、認識も変わってくる。
「で……あんた、悪魔とか言ったな……」
今後の身の振り方が定まらず、所在なさげに視線を彷徨わせながら、純也は笑い続けるグラーシャに訊ねると、彼は目元に浮いた涙を指先で拭い背中を真っ直ぐに伸ばす。その体は長身で、純也よりも頭一つは高い。
「んあぁ、そうだったわな。そうよ、悪魔なのよ、俺? どう怖い? いや、そりゃいいわ。とりあえず俺はそいつが欲しい。そいつを連れて帰んのが俺の役目。で、お前はそいつを渡す気はねぇと」
びっびっと自分、黒兎と呼ばれた少女、純也を交互に指さしながらグラーシャは状況を整理していった。
「まあ、そういうことだけどさ」
純也は頭の後ろを掻きながら、背後の少女を一瞥して、グラーシャの言葉を肯定する。その時、否、グラーシャ=ラボラスという悪魔が人の形を取ってから、純也はあれほどまでに恐怖を感じてなお外そうとしなかった視線を、外し続けていた。それは大いなる油断であり、玄人であろうと、素人であろうと、許されることのない明確な隙だ。
グラーシャの態度に純也は警戒を解いていた。それこそ、彼の親しげな口調に、悪魔という総称を履き違えてしまっていた。
「あっそ、ならしゃあねぇ。死んどけ」
大してことでもないようにグラーシャは声を発し、耳を疑った純也が弾かれるようにグラーシャへ視線を戻そうとした時にはもう手遅れであった。
二人の間にあったはずの距離を一瞬で翔破したグラーシャが、純也の胸にナイフを突き立て、引き抜き、致命傷を負った彼の横を擦り抜けた後――純也はようやくグラーシャがいたはずの場所を見ていた。そこにあるのはただ森の闇のみ。
一瞬遅れて、純也は自らの胸に空いた穴を知覚する。
「罪深き崇高なる我々咎人が製作せし死を並べ揃え数え晒し、墓標と成しても未だ賽の河原に果てはなく、罪を叩き売っても尚天への駄賃には足らず、銀貨三十枚さえ我らの手には残らず、死して尚寄る辺無き我等は、唯、荒廃為る世界に遺棄され、天に召される為の通貨なる罪を重ね続けし。罪の桁七つ超えて今も、我らは流転し地に蔓延り血に濡れる流離人(サスライビト)――墓標に刻むべき名も喪いし鬼畜の群衆也。儘、迎天(ゲイテン)の徒と成り下がり、汝等に等しく死を与えし欺瞞の救済者たる我等の白刃に穢されし汝の魂を我が罪として鄭重(テイチョウ)に記録しよう――なんつってな」
背後に立ったグラーシャは謳うように言って、逆手に持ったナイフを黒衣の裏、腰に巻いたホルスターに滑らかな動きで仕舞う。
心臓をナイフで刺された。その意味を分からない者はいない。純也もまた理解する。自分は死ぬのだと。殺されたのだと。
こんなに簡単に、人間とは殺される。彼にとってすればいとも容易いことなのだろう。
体が熱く脈動する。自らの胸に出来上がってしまった穴を呆然と見つめる純也の内側が熱く滾った。
何かが内側で燃えている。
全身が強く鼓動する。全身を血液が目まぐるしく循環し、熱量を強めていくのが分かった。
脳裏を過去が駆け巡る。いつも自由奔放な千種が見せた痛みに堪えるような微笑、無邪気に純也へと纏わり付く美景の天真爛漫な笑顔、平和な学校での日常、純也の日々に厄介事を持ち込む学友達の面々、幼き日を共有した美景との会話、噎せ返るほど白い部屋で寝台の上からいつも窓の外を眺めていた母の横顔、そして長き黒髪を靡かせ焦がれるように月を見上げ続けた少女の姿。
「……がはっ……!」
口から漏れる息さえ熱い。高熱を出した時とは比べものにもならないほど、まるで火でも吐いているかのような痛みを覚える熱さだ。
事実、純也の体は炎のような熱を帯び、雨に濡れそぼっているはずの服が、髪が、地肌が急速に渇いていく。水分が蒸発し、純也に降り注ぐ雨滴の全てが触れる前に消え失せ、周囲に蒸気が充満した。
血液が――沸騰する。
そう思った瞬間、心臓に生まれた刺し傷から烈火が舞い上がり、純也の体を包み込んだ。
心臓を食い破られるような激痛と肌を焼く絶痛に純也の絶叫が曇天を衝いた。森に谺する悲鳴はただ虚しく、森の静寂に飼い慣らされる。
死が脳に殺到する。このまま、誰に知られることもなく、自分は死ぬのだろう。純也は激痛に苛まれる意識の中で絶望する。
まだ何もできていない。ただ一人の、つまらない学生として死んでしまう。
絶望に打ち拉がれた彼が幻視(ミ)たのは、記憶にない少女の満月のように柔らかく安らかな微笑の残滓だった。