「ふむ、これで今晩は持ちそうだ。助かったよ、純也くん」
「いえいえ、大したことじゃありませんよ」
再びコンビニの自動ドア付近に立ち、純也と千種は雨粒を避けるように店の外壁に背中を押しつけていた。
千種の片手にはカップ麺と紙パックのコーヒー牛乳とマガジンとコンソメ味のポテトチップスが詰まっている。さらにもう片方の手にはビニール傘。どれも純也が奢ったものだ。最後まで渋っていたが、純也が半ば強引に買い渡した。
もう観念したらしく、千種も文句を言うことはない。ただいささか不満そうにレジ袋を見てはため息をついている。未だに言いたいことはあるんだろう。純也はあえてそれに気付かないふりをしていた。
雨は未だ止むことを知らない。ただ壊れたように降り続けているだけだ。大地に打ち付ける億千の縦糸は虚しく弾け、無残に存在を散らしていく。
「しかし、後輩に奢らせてしまうとは、先輩の面目丸潰れだな」
「先輩はどうあっても俺の先輩ですよ。いつもお世話にもなってますし、これくらいどうってことはないです」
何気ない純也の言葉に、降りしきる雨を眺めていた千種は弾かれたように顔を向ける。その瞳は何に驚いているのか見開かれていた。
「ん? どうかしました?」
「いや……何でもない」
纏わり付くものを振り払うように頭を振って、千種ははぐらかすように答える。彼女は何でもないと言うが、純也の目にはそう映らなかった。千種があんな反応をすることは滅多に見れるものではない。
今も千種は深刻そうに眉根を寄せ、唇を引き結んでいた。痛みに耐えるような顔だ。
「あの、先輩……」
「君は私が私である限り、そうやって私を呼んでくれるんだろうな」
「ええ、そりゃあ、まあ」
突然の問いかけに戸惑いながらも、純也は素直に頷く。千種は満足げに腕を組み、はにかむように唇を綻ばせた。
「ふむふむ、では、そうだな。君は――」
千種の視線がほんの僅かな間だけ逸れる。ほんの僅かな逡巡、戸惑い、躊躇。誰もが見逃してしまう刹那の混濁。瞬きにも似た切断の後、彼女と純也の瞳孔は再び接続された。
「私が私じゃなくなっても、私を私としてくれるのだろうか?」
「はい?」
純也には到底理解できない哲学的な問い。純也が知能が追い付かないわけではない。あまりにも前触れものない、漠然とした問いを彼女が投げかける真意が、純也には理解できなかった。千種はそんな純也に呆れることもなく、何事もなかったかのように柔らかく笑う。
先程も見た諦観と悲嘆が綯い交ぜになった出来損ないの微笑。泣いているような笑顔。その表情は、純也の胸に甘い疼痛を喚起した。
「何でもない。ちょっと言ってみたかっただけだ」
「言ってみたかっただけって……」
今日の千種はどこかおかしい。そんなことは純也にだって分かった。
彼女は何か、大切なことを言おうとしているように思える。その何かが純也には分からない。察することのできない自身の愚かさに苛立ちさえ覚えた。
聴かなければ後悔する予感がした。今日の千種はいつもよりも存在が不安定に感じられる。もともと浮世離れした、何物にも囚われない千種が、さらに遠い。
気を許せば、どこかへ消えて、二度と帰ってこないような不安が募る。
純也が踏み込まなければ、千種はその胸の内に、切なげな表情の下に隠した言葉を話してはくれないだろう。だが、踏み込んでしまえば消えてしまうのではないのだろうか、という恐れが付き纏った。
「くだらないことを話してしまったな。いや、申し訳ない」
「気には、してませんけど。なんか今日、おかしくないですが?」
「ん? そんなことはないぞ。お姉様は今日もお色気むんむん、お肌のハリが良好でちゅるんちゅるんだ、ハッハッハ」
千種は腕を組んで、得意気に快活な笑い声を上げる。そんなところはいつもと変わらない。先程までの不可解な表情を残滓も残さない笑顔に、あの表情が本当に嘘だったようにさえ思えてしまう。
実際、演技なのかもしれない。千種ならやりかねないことだ。
「ならいいんですけど……」
「なんだ? お姉様を心配してくれたのか。ははぁん、嬉しいじゃないか。君は本当に少しでも隙を見せるとずかずか入ってくるなぁ。ふむ、朝丘くんも熱烈なモーションよりこうやって弱味を見せた方がいい、と伝えておこうか」
意地の悪い笑みを浮かべて、千種は何か悪巧みをしている。千種は楽しそうだが、純也は勘弁してほしいものだ。
今は直線的なモーションしかかけてこないから避けるのも楽だというのに、美景が技巧などというものを覚えては純也のストレスが大幅に増えかねない。
「あいつに変なこと吹き込まないでくださいよ。また厄介事が増えるじゃないですか……」
「君が朝丘くんを娶ればいいだけの話じゃないか。朝丘くんは可愛いし、愛嬌もあるし、気立てもいい。何より今後、体が女性的に素晴らしい成長をする見込み大。はっきりいって君が避ける理由が私には分からない。あんな美少女に言い寄られて、何故逃げるんだ?」
「やめてくださいよ。美景は俺にとってそういうんじゃないんですよ」
肩を竦めて、純也は面倒そうに頭をかいた。多くの人々に何度も聞かれたことだ。もう答えるのは億劫だった。
「なんだ? 確か朝丘くんは家柄もいいだろう? 片……逆タマじゃないか。えーと、なんだ、どこか有名な家系の分家筋だったか?」
「ええ、藍乃坂(ランノザカ)家の分家筋だそうです。確か、母親の方が朝丘の跡取りで、父親が同じ分家筋の紅城の次男坊だったとか」
以前、美景から聞いたことがある。もともと幼い頃からの付き合いだ。そういった家の事情もある程度は把握していた。とはいえ、幼馴染としてはあまりに知らないことも多い。
「ふーん、随分と家系図が凄まじそうだな。一体、朝丘くんの実家はどういうとこなんだ?」
普段耳にすることがないような話だからだろう。千種はどこか唖然としている様子だった。
無理もない。幼き頃の純也も最初は御伽噺を聞いているような気分だった。そのため、あの頃の純也には美景がどこか異世界からやって来た特別な存在に思えていたのだ。
今になってすればバカバカしい話かもしれない。それでも当時の純也にとって美景はあまりにも輝かしい存在だった。
「何でも古来より日本の伝統芸能を継承する家系だとか……。宗家の方は祭事を行う神職に就いていたらしいですね、昔は。確か父親は武術の師範代。母親も華道の師範だとか」
「なんだそりゃ、朝丘くんはあんな形(ナリ)をしてサラブレットなのか? やはり人間は見た目で判断できないな。こんなに驚いたのは外見中学生の幼い新妻さんが女王様プレイが好きだと知った時以来だ」
「今何気に美景に失礼なこと言いましたね。まあ、そうは言っても本人は結構呑気なもんですよ。特に名家だからどうこうってこともないみたいですし。それに美景には兄がいますから、兄が家督を継ぐでしょう?」
「いや、朝丘の姓ってことは父親が婿に入ったんだろう? そうしたら華道を継ぐわけだから、朝丘くんなんじゃないのか?」
「え? そういうもんなんですか?」
何気ない千種の言葉に、純也は少し驚いたように目を瞠る。今まで一度も考えたことがなかったかのような反応だった。
「分からないが、そういうものだと私は思うぞ? 考えてみろ、男が華道はしないだろう、普通。嫁入りしなかったということは、母親は一人っ子だったんじゃなかろうか? 朝丘の血を絶やさないために次男坊が婿入りとか少し漁ればすぐに見付かりそうな話じゃないか」
「でも、美景からそんな話は一度も聞いたことないですね。叔母とかいるんじゃないんですかね?」
それは自分の中に生まれた不安から目を逸らすような、苦し紛れの言葉だった。
「私に訊かれても、分かるはずがなかろう。朝丘くんのことは君の方が知っているだろう?」
「俺だって、そこまで知ってるわけじゃないですよ」
自嘲するように純也は呟く。幼馴染とはいえ、純也は美景の家庭のことを何も知らない。純也が知るのは純也の前にいる時の幼馴染としての美景と、学校に通う学生としての美景程度だ。それ以外は何も分からない。
今まで純也は知ろうとせず、また美景は語ろうとしたことがなかった。
情けない純也の態度に、千種はため息を吐き出し頭をぼりぼりとかく。
「呆れた……なんだ? 君と朝丘くんはすごく仲のいい友達以上恋人未満の関係ですよーとでも言いたげに学校でラブコメしてるくせに、お互い何も知らないのか? そんなことでよく今までやってきたな」
「それが俺達にとっては普通でしたから。それに幼馴染って言ったって特に親しいってわけじゃないんですよ」
「そんなのは言い訳にすぎんだろう。君、少し考え方を改めるべきだぞ? 美景くんは別にいつまでも君にぞっこんというわけでもないだろう? 君がいつまでもそんなんじゃ、きっと彼女は別の男を選ぶぞ。それどころか、本当は嫁ぐ相手を選んではいけない立場にあるのかもしれない。幼馴染だからとか、向こうが好きでいてくれるからとか、そういったことにいつまでも甘えてばかりいるな。好きなら想いを伝えろ、嫌いならいっそのこと突き放せ。それが朝丘くんのためだ」
千種は責めるように強い口調で純也を諫めた。決して怒鳴るわけではないが、千種が苛立ちを覚えているのは明白だ。
純也の優柔不断な態度が気に入らないのだろう。彼女の怒りは尤もなものであり、純也の胸にも深く突き刺さった。
「俺にとって美景はそういうのじゃないんですよ。そりゃもちろん大切にはしているつもりですけど、ただそれが恋愛対象として、というものじゃないんです」
「……そういう君の優しさが朝丘くんを苦しめるのだと思うぞ? 私は君たち二人を応援しているし、上手く行ってほしいとも考えている。それでも無理に付き合えとかそんな外道なことは言わない。ただ、あまり朝丘くんを勘違いさせるようなことをしないようにしろ。君は優しすぎる。時には突き放すことも必要だ」
「そういう簡単な問題じゃないことは先輩だって分かっているでしょう? 美景は俺にとって家族のようなものなんです。恋愛感情とかは抱けません」
兄妹のように育ってきた関係だ。幼き頃を誰よりも共有した人だ。純也にとって美景という存在は家族の一員であり、それ以外の何物でもない。
純也にとって家族という関係性は最高位のものだ。他人とは一線を画した強い絆だと考えている。いつ途切れてしまうかも分からない友人や知人、恋人という関係とは異なり、家族とはいつまでも決して終わることのない関係性だ。家族という存在を失っているからこそ、純也は家族の大切を痛感している。美景は、その関係性では不満なのだろうか。
「家族、ねぇ」
千種はどこか面倒そうに純也の言葉を繰り返す。吐き捨てるような言い方には幾許かの侮蔑が含まれているように感じられた。純也にではなく、家族という言葉そのものに向けられた憎悪は、深く色濃いものだ。
「家族っていう関係性は切ろうとしても決して切れないものだと思います。恋人だって酷い言い方ですが結局は他人です。だからその気になれば簡単に断ち切ることができます。でも家族ってそういうものではないでしょう?」
「君、それ本気で言っているのか?」
千種はうんざりとした様子で、純也の目をじっと見た。
「え?」
「家族は他人じゃないとでも思っているような物言いだが、家族だって結局は他人さ。兄弟、姉妹、親子? そんなものは結局肩書きにすぎんよ。友人、知人、親友、恋人、同級生、隣人――それらと全く同列なものなんだ。むしろ、望まずして押しつけられた関係性じゃあないのか? 家族なんていうのはさ。親が子を殺す、子が親を殺す。そんな事件、腐るほどあるじゃないか。兄弟だって、親の遺産一つで啀み合う。農夫と羊飼いが争ったように、人間は繋がる限り争いの因子を抱え続けているのだよ。切っても切れない? 切っても切れない枷だからこそ、骨肉の争いに発展するのだろう。君は家族に幻想を抱きすぎている」
いつもの気さくな口調とは異なる冷酷な言葉の数々。その全ての矛先は綺麗に純也へと並べ揃えられている。傷つけるために産出された言葉が、純也の胸を凍てつかせていく。
彼女の論理はどこまでも冷たく、鋭さを持っていた。家族という当然の絆に汚泥の煮え立つような怒りを抱いている。
「純也くん、親は子供を選べない。子供は親を選べない。産んでしまった以上、産まれてしまった以上、その押しつけられた関係性は永劫断ち切れない。望もうと望まずとも、な。家族なんていうものは所詮レガシーコストだよ」
「そ、そんなことは……」
「親だからという理由で一方的な抑圧を享受しなければならず、老い果てれば金を出して面倒を見なければならない。育ててもらった恩を返さなければならない。親もまた、子供の責任を押しつけられ、どんなに人間として屑だとしても面倒を見なければならない。子供ほど維持費がかかるものはなく、維持を強制されるものもない。バカみたいだとは思わないか? 純也くん。……いや、君は思わんのだろうな。私がどれだけその存在の不要性を説明したところで君は決して理解しないのだろう」
最後の言葉は純也に向けられぬ独白のようだった。諦めるように自分へ言い聞かせるような言葉。切れ長の目は伏せられ、降りしきる雨によって生じた波紋を重ね合わせる水溜まりを見つめている。
純也には今、彼女が何を思っているのかが分からない。
雨音は沈黙を許さず、しとしとと浸み渡り、間隙を満たしていく。
あまりにも静かで、だからこそ耳障りで、間断はなく、言語などという低俗な音を挟む余地が見出せず、純也は押し黙るしかなかった。
千種もまた、それ以上の話すことはなく、雨がアスファルトに落ちていく様を見つめている。
「……ふむ、ムダなことを話してしまったな」
うっすらと湿り気を帯びた艶やかな黒髪を掻き上げ、千種は腕を組み直す。
心なしか、彼女が纏っている雰囲気から鋭さが薄れているように思えた。少なくとも純也に向けられた目は柔らかい。
穏やかになった千種の表情に、純也も緊張が僅かに解れる。
「ムダということもないんじゃないんですか?」
「相手の理解を得られない価値観を垂れ流すことは、双方にとってムダだ。そうではないか?」
硬い口調で話し続けていたせいだろう。千種の声質は穏やかだというのに、語調はあまりにも鋭いものだった。その差に純也はたまらなくおかしくなり、頬を緩めてしまった。
「ん? 何がおかしい?」
「い、いや、ちょっとおかしくて……すんません」
口元を押さえ純也は必死に込み上げてきそうな笑いを必死に抑え込んだ。いつも理知的で理性的な千種が自分を制御しきれていないというのは、どうしてか可笑しいものだ。普段ムダなことばかり言っているというのに、慣れないことを言うからそうなるのだろう。
そう、普段の千種は常にどうでもいいことばかりを言って、気楽に笑っていた。それが純也にとっての千種の在り方。
ふと、そんな当たり前のことが意識に浸透した。
目的もなく呑気に、気の向くまま赴くままにふらりふらりと寄り道ばかりをするように日々を自由に生きる。それが千種という女性だ。
「なんだ、何がそんなに面白いんだ。なんだかすごくバカにされているようで屈辱的だな」
「いや、そんなつもりじゃないんです。ただ、先輩らしくないな、と思いまして」
「私らしくない?」
腕を組んで仏頂面になった千種は、純也の言葉に眉を跳ね上げた。純也が言おうとすることが分からないのだろう。
今の今まで解読できない言葉を聞かされ続けたのだ。それくらいの意趣返しは許されるてもいいはずだ。
純也は雨の降りしきる宵闇へと視線を逃がし、ゆっくりと目を細める。
「くだらないことを楽しむ。つまらないものを面白く。余興を何よりも堪能する。それが園部千種でしょう?」
穏やかな声で、純也は独り言のように呟いた。雨を見つめ、決して千種を見ることなく。
雨を愛しむように、何気ないような素振りの言葉。千種から視線を逸らしたのは、彼女の反応を見るのが怖かったから。
千種は何かを言うことなく、ただ黙っている。全ての雑音は遠ざかり、雨音の濡れた質感ばかりが耳に積もっていく。
反応がないために、純也もそれ以上何かを言うことができなかった。ただ一つ、何も考えず、心から思っている本心を口にしただけだ。そこから先、何を言うか考えてなどいなかった。
沈黙になりきれぬ静けさ。宙ぶらりんな空白。
純也は一度も千種を見ることができずにいる。
「……全く……キミという男は……朝丘くんが不憫でならないな」
「なんでそこで美景の名前が出るんですか?」
驚いて千種の方へと振り返ると、千種は腕を組み仏頂面のままだった。先程掻き上げたはずの髪は、どういうわけか顔にかかり表情はあまり見えない。それでも引き結ばれた唇だけは見えた。不思議と、千種が小さくなったよう思える。威圧感が消えたせいなのかもしれない。
「何でもない……私はそろそろ帰るとしようか。純也くんはどうする?」
その声は彼女のものとは思えないほどにか細く、弱々しい。雨音にさえ掻き消えてしまいそうなほどに小さく、あまりにも無力の言葉。今まで純也が一度も聞いたことのない声だった。
「俺も帰りますよ。もともと先輩に呼ばれてきただけですから、ね」
大仰に肩を竦めて、純也はおどけたように笑う。彼女の買い物が終わった時点で、純也のやるべきことは終わっていた。
千種の望みが果たされたのなら、純也の望みも果たされたのと同義なのだ。
ここから先、するべきことはない。今日も早起きをしなければならないのだから、家に戻ってすぐ寝るべきだろう。
純也の返答に千種の頭が僅かに傾いだ。潤いに満たされた艶めかしい唇は今も引き結ばれている。
「ああ、そうだったな……。すまないな、こんな遅くに。気を付けて帰るといい」
「もし迷惑じゃなければ、送っていきますけど……」
心配する純也の提案に、千種はくすりと笑った。
「いや、大丈夫だ。寝返りを打つ様さえ雄々しく、悲しみを背負った者にしかできぬと言われる凄まじい奥義を修得しているとまで言われる千種お姉様だぞ。たかだか暴漢の一人や二人、ハメ倒してポポイのポイッさ」
気丈に微笑み、千種は軽口を叩く。その気高い笑みに劣化はなく、常の彼女の誇り高いものだった。
その姿を見て、純也は一瞬呆気に取られるが、すぐに安堵の感情が沸き起こる。それでこそ、純也の知る「先輩」の姿だ。
「なんだ? 突然ニヤついて? 私の色香に気付いて下半身の大蛇が鎌首を擡げたか?」
「んなこたありませんよ。なんでそうなるんですか?」
「いやいや、構わないよ。純也くんだってそういう年頃だろう。存分に私をおかずにするがいい。私は文句を言わない」
ふくよかな胸を張り、千種はふんと鼻を慣らした。誇るように堂々と、何故か慈母的な笑みまで浮かべている。
「まあ、そんなことは一切ないですからね。とりあえず時間も時間ですし解散しませんか? 俺も補導されるのはまずいですし……」
はははと声を上げて愉快に笑っていた千種も、ふと我に返った。
「む、それもそうだな。さすがに純也くんが私のせいで補導されるのは申し訳ない。うん、純也くんに何かがあったら、私が朝丘くんに怒られてしまう」
「いや……んー、まあ、そうなんですけど……」
少なくとも美景が怒ることは容易に想像できた。純也が深夜徘徊などを極力しないようにしているのも美景に説教をされないためだ。
美景はまるで純也の母親であるかのように、純也の素行を注意する。それを煩わしいと思ったことはなく、自分のことを心配してくれる彼女には感謝もしている。だからこそ、純也は常日頃から清く正しい生活を心がけていた。
今回のように千種が呼び出した時は例外である。もし純也が千種の呼び出しを拒否した場合、女子を深夜の町に放置したことを怒られるだろう。
清く正しく、正義のために融通が利くからこそ、融通の利かないことが多いのが美景なのである。
「ふむ、よし、では純也くん、さっさと帰るといい」
有無を言わさぬ口調で言って、千種はびっと純也の家のある方角を指さした。
「あー、まあ、はい。先輩も気を付けて帰ってくださいね?」
「任せろ。超人バロム・ワン歌いながら帰ればきっと誰も近づいてこないぞ。魔人ドルゲをルロルロロー! やっつけるんだぁ! ズババババーン! とな」
高らかに、楽しそうに、全力で歌う千種は自己陶酔に陥っているようだが、その歌はあまりにも下手で聞けるものではなかった。歌詞も相まって、白い粉でも吸引したかのような恐ろしさだ。確かにこれなら誰も近づいてこないだろう。
声は所々裏返り、音程という概念など存在しない歌唱力。信じ難いことだが、千種は本気で歌っている。しかも自覚のない音痴という一番対応に困るタイプだ。
去年の学園祭など、一人でリサイタルを開き、体育館に集まっていた生徒達は感動とは異なる形で涙を流した。中には嘔吐する者や、気絶する者などもいて、特に問題もなく穏やかに進行していた学園祭に深い爪痕を残したほどだ。あの日の悲劇は全校生徒の記憶に深く刻まれている。実際に立ち会った者の中には千種を見ただけで子鹿のように震える女子生徒もいる。
「ははは、私の素敵な歌唱力の虜になって、私をまともに見ることもできないとは、可愛い奴だ」とは千種談。あの学園祭で生徒達を恐怖の渦に陥れた千種が、一番満足をしているというのは皮肉な話である。千種のあまりにも素晴らしい歌唱力が原因で校長が全校集会での校歌斉唱を省き、彼女のクラスでの音楽の授業は楽器に関するものに限られるようになったという伝説も残しているのだ。その伝説を知らないのは本人だけである。
「まあ、大丈夫そうですね、歌ってれば」
おそらく千種は恥じらいもなく歌いながら帰るのだろう。人間を気絶させる歌声を持つ彼女には、どんな凶悪犯罪者も近づけるはずがない。
「ふむふむ、純也くんも分かっているじゃないか。うむ、お姉さんは嬉しいぞ」
「は、はぁ」
きっとこの近辺に住む人は安眠を妨害されるのだろう、と思いつつ純也は止められなかった。誰も千種の歌唱力に口出しはできない。
罪悪感を抱きながらも、結局制止することができない純也は、我が身が可愛いのだろう。怒った千種の身も凍るような恐ろしさに触れたことがある純也には、わざわざ彼女が怒るようなことを口に出す勇気がなかった。
そんな彼を咎める者がいるとすれば、千種の骨の髄まで凍り付き、魂まで震え上がるような憤怒に触れたことがない者だけだろう。純也は彼女の怒号を受けた時、脳裏に割れる海の情景さえ見えた。海原の神の怒りを買ったのなら、海も割れるはずだ。
要するにポセイドン程度の迫力が千種にはあるということである。どう考えても常人ではない。
「それじゃ咽喉を壊さない程度に」
これから安息の時間を蹂躙されるであろう住民のために、遠回しに控えめにするように言うが、千種は剛胆に笑う。
「ハッハッハッハッハッハッハ、心配いらぬ。六時間くらい歌い続けない限り咽喉を痛めることもない。実際そうだった」
「さいですか……」
六時間も歌い続けたことがあるということに、純也は胸焼けさえ感じた。もしその場に居合わせていたとしたら、純也の精神は崩壊していたことだろう。今頃白い壁の病室で死んだように臥していたはずだ。
下手に止めない方が身なのかもしれない。
「じゃ、俺はこの辺で失礼しますな」
「うむ、お互い無事に帰れたら、また会おう」
くるりと長い黒髪を振って、純也に背を向けた千種は純也の買ったビニール傘を広げ、大袈裟な別れの挨拶を口にする。
千種の独特な言い回しは今に始まったことではなく、純也は大して取り合うこともせずありきたりな別れの言葉を返し、降りしきる雨の中に沈み込んでいく千種の姿を見送る。
今宵の闇は思ったよりも色濃く、濡れた帳に千種の背中はすぐに隠された。千種の去った後を純也はしばらく見つめ、小さく息を吐き出し肩を落とした。
「全く……先輩も勝手だな」
突然、呼び出されて来てみれば、ただお金を借りるためだけ。その上、自分で呼び出しておきながら、早く帰るように促す。本当に千種という女性は自分勝手な人物だった。それでも憎めないのは、千種の自由奔放とした生き方と天真爛漫な立ち振る舞いのせいだろう。それに、あれで友達想いな性格でもある。もし困った時には誰よりも真剣に悩んでくれる人だ。
それを嫌いになれという方が無理な話だろう。
特に純也のことは、千種も特別気にかけている。何かとあれば純也の教室に遊びに来る上、絡んでくるのが日課だ。
また千種の周囲では特別なことや面白いことが数多く起こる。もとい、彼女が起こす。そこに立ち会うのは面白く、いつだって新鮮な刺激がある。それも千種の魅力の一つだろう。
園部千種という女性は、純也の学校生活においてかけがえのない存在だった。
「さて、俺も帰るか」
静かに言って、純也も傘を広げコンビニを後にする。目を灼く人工の光に背を向け、目眩さえ覚えそうな自然の闇に身を投じた。
もう夜も深い、近道を通って急いで帰ることをにする。この住宅街を抜けた先にある外国人墓地を真っ直ぐに突き抜けると、随分とマンションまでの距離を縮められる。普段は、縁起も悪いので避けているが、別段怖いわけでもない。
警察に見つかって補導を受けでもしたら厄介だ。早めに室内に引っ込まなければ、美景の後日搾られることになる。
急ぎ足で道路の継ぎ接ぎに出来た水溜まりを弾かせ、純也は帰路へとつくのであった。
足下で撥ねる水音は血溜まりのようであり、闇に飲まれ果てなく続いていく地獄への航路を連想させた。