灰色へ問う、此処は何処かと

 すでに日付は変わっただろうか。そんなことを考えながら、純也は人気のない道を歩いていた。
 片手に傘を持ち、パーカーのフードを被り、等間隔に設えた外灯を頼りに雨の中を独り歩く姿はさぞ不思議なものだろう。
 両脇に並ぶ住宅の人々が見たら不良か浮浪者、そのどちらかだと思うのかもしれない。純也も好きで深夜徘徊をしているわけではない。本来なら、今日はもう寝なければならない。明日は学校も休みだが、休みだからこそやらなければならないことが大量にあるのだ。
 何より土日はスーパーのポイントが二倍になる。なるべく安いものを買い溜めして、ポイントも貯めたいところだ。その他にも学業のある平日にはできないことが多い。
 だから、本当は寝ているところなのだ。今日あった、覚えていたくない出来事もある。記憶もリセットしてしまいたい。だというのに、何故自分はこんな土砂降りの雨の中、独り歩いているのか。眉間の皺を深めた純也は自問自答する。
 スニーカーには雨水が染み込み、ズボンの裾もすでにびしょびしょに濡れていた。歩く度に靴の中の靴下が吸った水が吐き出されて気持ち悪い。
 昨日の夕方、体験したばかりの感覚だ。せっかく着替えたというのに、また濡れてしまうことになろうとは夢にも思っていなかった。近いうちに風邪を引くかもしれない。あながち外れているとも言えない予想が脳裏に浮かぶ。
 傘を叩くくぐもった雨音に耳を傾け、純也はため息を吐き出した。
 気持ちと天候が共鳴している。短い時間に嫌な思いをしすぎた純也の心は沈鬱なものであった。
 だからこそ眠りたいところだというのに、何故自分はこんなことをしているのか。
 問いの答えは、目前にまで迫った目的地で雨宿りをしていた。コンビニエンスストアの自動ドアの近くでスカートのポケットに手を突っ込み、寒そうに肩を竦めながら曇天の空を見上げている。
 間違いなく日付は変わっているだろう。だというのに、彼女はどういうわけか制服姿だった。美景と同じチェック柄のプリーツスカートにセーラーブラウス――間違いなく純也の高校の制服であった。そこまではいい。この時間帯に制服姿で堂々とうろついていることも目を瞑ろう。それでも純也が絶対に譲れないことが一つだけあった。
 法律や規則、マナーなどそういった次元での話ではない。純也の意志を以て絶対に譲れないことがあった。
 何故彼女はセーラー服のタイを頭に被り、鼻の下で結んでいるのだろうか。まるで漫画で見る泥棒のようだ。
 純也は本日何度目かも分からないため息を吐き出し、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄った。
「先輩、何やってんすか?」
「おお、純也くん、早かったではないか」
 純也が声をかけるとタイを頭巾のように被った女生徒は長い黒髪を振りながら、嬉しそうに手を振ってくる。喜んでくれるのは喜ばしいのだが、今現在はあまり知り合いだと思われたくない。
「何をやっていると言うが、私は君を待っていたんだぞ。それこそ七年間うだつの上がらないサラリーマンをしている夫の帰りを玄関先で待つ、今でもその男が大器晩成型だと信じて疑わずブランド物……シャネル、とか? ヴィトン……とか? のバッグや財布をたくさん買ってもらえることを心待ちに……している新妻さんのように。もちろんここで言う新妻は次の結婚相手として、夫の仕事先の夫よりもずっと優秀で女心の分かる優男に狙いを定めている、まあ、わけなんだが」
 腕を組み、今にもぷんすかと効果音が付きそうな様子で、彼女は唇を尖らせる。
「すんません。いろいろ付属情報多すぎて、メインのことがよく分かりませんでしたけど、多分そのことじゃないっす。なんで先輩は、そんなこそ泥よろしくなファッションしてるのかってことを俺は聞いたんです」
「ん? ああ、これか? いや、雨粒を凌ぐのによさそうだと思ってな。どうした? 常日頃から魅力的でレジの会計で端数の小銭を出すのにまごつく姿さえ妖艶だと大好評の千種お姉様の新たな魅力に気付いたのか?」
 そう言って誇らしげに胸を張るが、純也は全く意味が分からない。彼女の奇特な行動がまた一つ増えただけのことだ。
「すんません。いろいろ付属情報多すぎて、メインのことがよく分かりませんでしたけど、きっとそんなことじゃないっす。中で雨宿りしていたらよかったじゃないっすか」
「いや、それはそうなんだがな。ここはやはり七年間うだつの上がらないサラリーマンをしている夫の帰りを玄関先で待つ、今でもその男が大器晩成型だと信じて疑わずブランド物……シャネル、とか? ヴィトン……とか? のバッグや財布をたくさん買ってもらえることを心待ちに……している新妻さんのように待っていたかったんだよ。まあ、その新妻は夫の小遣いを家計が辛いと言い訳して削り、浮いたお金で下北沢の男に貢いで――いるんだがな」
「なんで今溜めたんですか。最早、そこで貢いでいないなんていうことにはならないでしょう」
 純也の問いに、千種と名乗った少女は腕を組んで黙り込む。その体は女性的な膨らみと細さを持ち、多くの女性が嫉妬するであろう発育のよさだ。顔立ちも整い、目鼻立ちがすっきりした顔は大人びた雰囲気を持っている。無論タイを頭に被っていなければ、の話ではあるが。
 千種はずっと黙り、純也をじっとだた見つめている。
「…………」
「…………」
 雨音が鬱陶しく感じられた。
「……君はー、なんだ? 展開を先読みする能力とか持っているのか? 私のこの絶妙な話の展開の先を読むとはなかなかだ。推理小説の登場人物紹介で犯人が分かるクチだろう?」
 重苦しく口を開いたかと思えば、千種はそんな意味の分からないことを口走る。いつものことながら、純也は毎度呆れが顔に出ないように努めることで忙しい。
「いや、そんなことは一切ありません。それどころか推理小説読みませんし」
「なんだと? 君はそんな柄の悪い外見をして実はロマンス主義で感傷に浸りやすい戦地メタル……いやセンチメンタルな人間だと思っていたんだが。ほら、ベランダで花に水とかやってそう。パンジーにレベッカ、チューリップにシャーリー、コスモスにマイケルとか名前つけてそうな。そんな君なら小説を常に懐に忍ばせ、愛読書は『羅生門』――Kの本名が気になるところです、そりゃ夏目漱石の『こころ』だろ、とかって独り文学ジョークとかカマしてそうだというのに」
「それまるっきり先輩の妄想ですから。お願いですから、本筋から逸脱するのやめてもらえませんか? 全く話が進みません」
「ああ、そうか。これはすまん。まあ、そうだな。慰め程度の雨具兼防寒具と思ってくれれば構わない。溺れる者は藁をもつかむ、というだろう? 限界までむらむらした時、健全な日本男児はベッドの軋む音さえおかずにするように」
「そんな話は今まで一度も聞いたことがないです。まあ、とりあえずそれ外してください」
 いつまでも頭にタイを被った女性と話しているのは精神的に辛い物があった。純也の周囲には美人なのに、行動が人間として破綻している者が多すぎる。その都度、純也は頭と胃に痛みを覚えている。
 ストーカー少女に、会話を正しく成立させず不毛な会話ばかり続ける先輩。そして今度は妄想癖のある隣人。最早、何が来ても驚くことはないだろう。ただ心労が増えるだけだ。
「ふむ、まいだぁりんが言うのであれば仕方ない。七年間うだつの上がらないサラリーマンをしている夫の帰りを玄関先で待つ、今でもその男が大器晩成型だと信じて疑わずブランド物――シャネルとか、ヴィトンとかのバッグや財布をたくさん買ってもらえることを心待ちにしている新妻さんのように、夫の命令に大人しく従うとしよう。はぁ、これが亭主関白という奴か。まあ、あと数年もすれば名実ともにかかあ天下となるわけだがな。ちなみにその新妻さんは下北沢の男と、どこかへ駆け落ちする計画を立てているが、相手の男には婚約者がいてあと三ヶ月もすれば新妻を捨てる算段だったりするのだよ」
 そう言いながら、渋々といった様子で千種はタイを頭から外しおざなりに首へ引っかける。まるで純也が強制したようで、どういうわけか罪悪感を覚えてしまう。
「さっきから思ってるんですけど、それって天丼とかっていう奴狙ってます?」
「いや、文字数稼ぎ」
 あっさりと何食わぬ顔で千種は答えた。
「……文字数って……なんすか?」
「そのままの意味だが。ほら、よく使う固有名詞とかの字数増やしておくと、結果的に行数伸びて、さらには枚数も増えるだろう? 作家さんとか結構みんなやってそうだと思わないか?」
「少なくとも俺と先輩の会話に字数制限はないと思います」
 そうは言っても、制限がないとはいえ台詞の九割を占めているのは千種だろう。彼女はよく喋る。純也が喋らないわけではなく、千種の一回の発言の文字数が圧倒的に多いのだ。彼女の語彙力には純也も平伏せざるをえない。
「はっはっは、私と君の会話は無限大。愛も無限大。私と君を縛る枷なんかなく、どこまでも飛んで征けそうだと。嬉しさのあまりお姉さんがイッちゃうじゃないか。はっはっは」
「全然意味分かりません。それよりもなんで俺のこと、ここに呼んだんですか?」
 諸々の疑問はさておき、今訊かなければいけないことはそれだ。こんな夜遅くに呼び出された理由は確認しなければならない。そもそも呼び出された意味がなくなってしまう。
 この際、瑣末なことは全て無視する方向で行こう。そうしなければ安息はいつまで経っても訪れない。
「ん? ああ、ATOKをパソコンにインストールして小説超書きやすーいとか思っていたんだが、誤変換まで記録してしまって変換するのが逆に大変になってしまったんだ。やっぱりたまに辞書ユーティリティー見ていらないの削除した方がいいのかなぁ? ということを相談しに」
「先輩」
 少し低めの声で呼ぶと、千種は残念そうにため息を吐き出し純也に向き直った。
「いや、ちょっと雑誌を買ってきて欲しくてな」
「雑誌? なんで俺に頼むんですか」
 純也のさらなる問いに、千種は眉根を寄せて微かに呻くような声をあげる。物憂げな表情で視線は駐車場のブロックを見つめていた。
「んー、その、だな。大変恥ずかしい話、財布を持っていないのだ……」
「はい? 何でですか? 有り金全部使いきりましたか?」
 こんな時間まで制服ということは家にも帰らず何かをしていたのだろう。ありえない話でもない。
 もともと奇特な行動が目立つ人物だ。ルールに囚われず何かをしていても驚くことではなかった。
「それはない! 私をそんな節操なしな女だと勘違いしていると、お姉さんがキリストよろしく君を男子便所のモップに逆さ磔にして頭髪とモップを櫛で梳かしてしまうぞ!」
 冗談交じりの純也の言葉を、どういうわけか千種は全力で否定する。
「あ……はい。それは、なんか、すんません」
 彼女の勢いに辟易としながらも、純也は謝罪の言葉を口にする。何か彼女の癪に障るようなことを言ってしまったのかもしれない。我に返り俯いた千種の頬はどこか赤らんでいるようにも見えた。
「じ、実はだな……鞄を、盗まれたんだ」
「は、はい?」
 しっかりと聞き取れてはいたが理解しきれず、純也は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「どうしてまた……」
「ほんの少し油断していたらな。ちょっとゲームセンターでギルティギアやって、俺ツエエしてたら隣の席に置いていたはずの鞄がなくなっていたんだよ」
「は、はぁ……そりゃまた災難で」
 詳しいことは理解できないが、鞄がなくなったことはよく分かった。
「お陰で今現在の所持金は筐体の上に置いておいて難を逃れたたったの三百円。キャッシュカードが入っていないのはよかったが、鞄に入っていた教科書類もアウトだな。まあ、ケータイはポケットに入れていたから、そこは救いか」
 嘆くこともなく、千種は淡々と状況を説明する。元々動じない性格であるのだから、ある意味当然ではあるかもしれない。それにキャッシュカードと携帯電話が無事だったのなら、何とかなるだろう。
 個人情報が流出することを考えると問題もあるかもしれないが、最も重要な二つは盗まれていない。もしこの二つも盗まれていたら、さすがの千種も動揺するのか少し気になるところではあった。
「大丈夫なんですか?」
「ああ、私には傷一つない」
 しっかりとした口調で、千種は気丈に断言する。純也の心配している部分は違うのだが、彼女がこういったことに関して鈍いのはいつものことだ。
「いや、そうじゃなくて……まあ、それはよかったですけど……ほら、お金以外にも大切なものとかあったんじゃないんですか?」
「ん? お金以外の大事なものは鞄に詰め込めるものではないだろう?」
「まあ、そういうものもありますけど……」
 目を眇め、納得のいかない顔で純也を見つめる千種。彼女のこういったどこか独特な哲学的見解はどうしようもできない性質のようなものなのだろう。本人はその世間からずれた認識に気付いてはいないように純也は思えた。
 おそらく千種の目に映る世界は、純也の見ているそれと全く異なるものなのだろう。
「いや、今はそんなことどうでもよかった。ジャンプ創刊号に載っていた漫画で一番人気のなかった作品ぐらいどうでもいい。問題は買いたい雑誌が買えないということなんだ。申し訳ないのだが、買ってもらえないか?」
「それは構わないんですけど、そんなに今すぐ必要なんですか?」
「ああ、私は寝る前に少年漫画を見ないと眠れない病にかかっていてな。自分のお金の半分以上を漫画に注ぎ込んでいる気がする。それはもうチェーンスモーカーのおっさんのように」
「誇れないですから、それ」
 何か決定的に間違っている気がした。きっと純也の感想は間違っていないだろう。
 千種は肩にかかった髪を払い、ふんと鼻を鳴らす。
「純也くん、君は日本男児だろう。日本男児たる者、少年漫画を読め。男塾とか、ジョジョとか……そんでジョジョは第一部がいいなぁ、とか言ったり、南斗水鳥拳! とか激似ボイスで言って周囲にどん引きされてみたらどうだ?」
「すんません。全部意味分かりませんでした」
「なっ……ジェネレーションギャップーぅ……」
 悪意のない純也の言葉に何故か千種は大きく肩を落とし落胆する。
 何か悪いことを言ったのかと罪悪感を覚えるが、謝るポイントが分からず戸惑ってしまう。一体何が悪いのか話の内容も分からないので、分かるはずがなかった。
「ふぅむ……妙に悔しいな……今度、千種お姉さんが漫画を貸してやろうか……」
「あのぅ、それで何を買ってくればいいんすか?」
「あー。それだ。それがな『独占入手、房総の人妻を乱す。狂乱のアクメプレイ全集』という本を、だなぁ」
「……勘弁してください……少年漫画じゃねぇし」
 いい加減、表情筋を酷使することも疲れて、純也の顔に呆れの感情が浮かぶ。千種への敬意というものが最近は薄れてきている。
 千種は残念そうに唇を尖らせ、ふむと一つ頷いた。
「君はそうやって淡泊ぶって同級生の男子に嫌われるタイプだな。全く、もっとみんなと猥談とかしたらどうだ。もっともっと、エロくなれよ! と、どっかの熱血テニスプレーヤーに叱咤されるぞ」
「は、はぁ……それで本当は何を買ってくればいいんすかね?」
「あー、マガジン」
 散々迂回をした結果、千種の答えは全身の力が抜けてしまうほどに単純な物だった。たった一つ、こんな簡単な答えを引き出すのにこれだけの時間を要してしまうことにも慣れていた。千種と話していると、たった一つの単純なことで学校の休み時間を丸々費やしてしまうことさえある。
 会話において話題の寄り道を何よりも楽しむ人間だ。散歩においても、人生においても、寄り道を楽しんでいるであろう千種に純也は尊敬さえ覚えていた。
「いやな、買おう買おう思いながら忙しくて買えなかったんだ。今日こそ買おうと思ったのに、財布を盗まれる始末……何たる愚かしさか」
「まあ、いいですよ? それくらいなら大したことないですし。奢りますよ?」
 この程度の予定外の出費は許容範囲だ。普段、純也の世話を見てくれる千種には奢っても悪いことにはならないだろう。
「本当か? 私はそう言われると容赦なく甘えてしまうぞ。猫の眉間をジャウ! と小突く姿さえ可憐だと好評の千種お姉さんだって実は甘えん坊なんだぞ」
「いや、ホント構いませんよ。それくらいなら」
「ふむ……しかしだな、他にも頼みたいものがあるんだよ」
 眉根を寄せ、千種は顎に細い指をかける。思案顔でどこか困っているようにも見えた。
「ほら? カップラーメンとかも頼むつもりだったんだよ。これから夕食だから」
 随分と遅い夕食だった。この時間帯まで歩き回っていたのだから、どこかで食事を摂ったものだと思っていた。しかしよくよく考えれば、彼女は財布を盗まれていたのだから仕方のないことだろう。
「それくらい構いませんって。先輩だってたまに学校で昼飯買ってくれるじゃないっすか?」
「いやいや、そりゃ君、私が勝手に先輩風吹かしてるだけだろう。それに君、弁当持ってくるから結局、私が君の弁当もらってるじゃないか」
「あれは別にいいんですよ、俺は自分の弁当食べ飽きてますし」
 それでも純也が毎日欠かさず弁当を作っているのは、習慣づいているからだ。それ以上の理由はない。
「私は君の料理が好物と言ってもいいほど気に入っているんだがな」
「だからこそ、いいんですよ」
 千種は、純也が食べ飽きた料理を美味しそうに、褒め言葉を述べながら食してくれる。作り手としてそれ以上に喜ばしいことはないだろう。だからこそ、彼女には感謝している。それは紛れもない事実だ。
 呆れたようにため息を吐き出し、千種は面倒そうに頭をぽりぽりと掻いた。
「ふむ……君はそうやっていつも思わせぶりな態度を取るんだな……全く、そういうところ、私は好きじゃない……。どれくらい嫌いかっていうと、アレにそっくりなかりんとうくらい嫌いだ」
「すんませんけど、何となく何が言いたいのか分かってしまったんで、とりあえず女の子がそういうこと言うのやめてください」
「このフェミニストめ。君はそうやって朝丘くんとか情欲に狂わせているんだな。全く罪深い変態だ」
 侮蔑するような顔で千種は純也を見下すようにして鼻を鳴らす。大人びた美しさを讃えた千種の顔に、その表情はどういうわけか似合っていた。
「いや、あの……なんで俺そんなに罵られてるんですか」
「いいか、私は君を思って言っているんだぞ。この変態メッ」
 と、何故か千種は身振り手振りも大袈裟に愛らしいウィンクをしてみせる。
 意味が分からない。純也は、たまに彼女が情緒不安定なのでは、と心配になる。
「むー」
 反応の薄い純也に対し、千種は仏頂面になってしまう。今にも頬を膨らましそうな表情は、大人びた彼女の顔には似合わないが年相応の仕草で愛らしいものだった。
 彼女の表情は多種多様であり、あらゆる面を持っている。普段は一貫して仏頂面で理知的な態度を取っているが、純也などの限られた人間の前では表情豊かになることに、純也は最近になってようやく気付いた。
 純也に初めて話しかけてきた時より、千種は今の千種のままだ。いつも朗らかに、表情も豊かに話し続ける彼女が、普段は冷静で口数の少ない人物だということを純也は最近まで一切知らなかった。
「全く……君は本当にノリが悪いな。マイペースな男だ」
「お言葉ですけど、先輩にだけは言われたくありません。とりあえずマガジンとカップ麺買いません? 飲み物とかも奢りますよ?」
「いや、それはさすがに……」
 純也の申し出に遠慮して千種は数歩下がる。いつもは自分勝手な言動が目立つ彼女だが、こういう時に限っては消極的だ。そこが彼女の根の良さを如実に表しているように、純也には感じられた。
「いいですよ、そんなの。さ、行きますよ」
 言って、純也は引き下がろうとする千種の手首を強引に掴み、コンビニへと入っていく。こうなれば男女の力の差は歴然である。どんなに力強い態度を取る千種と言えど、男性の力には逆らえない。それが普段から体を鍛えている純也ならなおさらのことだ。
「一緒にイキたいとは、純也くんもなかなか純愛タイプだな。知っているか? 男性が達した時に、女性が一緒に絶頂に達しているっていうあれ、大抵女性の優しさから来る演技だぞ?」
 せめてもの抵抗として千種はそんなことを言うが、その声はどこか頼りない。彼女も本心から嫌がっているわけではないのだろう。
 純也は千種の抵抗を取り合うことはせず、そのまま店内へと引きずり込んでいった。
 店内は眩ゆいほどの明かりが敷き詰められており、暗い中にいた二人の目が膨張するように痛む。垂れ流される音楽は流行りのアーティストの新曲。陳腐な歌詞と日本人好みの当たり障りのないアップテンポの旋律でも、外の雨音を掻き消してしまう。そこに何とも言えない物悲しさを純也は覚えた。
 雨は嫌いではない。洗濯物を干していない時に限っては、の話ではあるが。
 自動ドア越しに夜の闇に溶ける銀糸のような雨から視線を切り、純也が千種の方へと目をやると、彼女はどこか満悦した顔で頬を赤らめていた。
「ふむ、強引なのも嫌いではない。嫌よ嫌よも好きなうち、とな。純也くんも誠実さだけが女性の扱い方ではないとようやく心得たか。どんどん姉さん好みの男になっていくな」
「はいはい、マガジンはいいとして、カップ麺自分で選んでください。あと飲み物と欲しいもの適当に」
「じゃあ、あのお手洗いの近くにある雑誌コーナーから好きな雑誌を一冊持ってきてくれ」
「思いっきり成人向けですから」
 純也の強制力がなくなりテンポを取り戻したのか、千種は普段の調子で純也が反応に困るようなことを言う。千種の思うような反応をしてしまうことは不本意なので、軽くあしらっておく。
 千種は特に気にした様子もなく、二人の足は自然とカップ麺の並ぶコーナーへと向いた。
「さて、純也くん、君はどんなラーメンが好きだ? ちなみに私は家畜臭い豚骨ラーメンが好きだ。本場嗜好の私……素敵」
 二人並んで棚に並べられたカップ麺を眺める。最近のカップ麺の種類は豊富だ。意味なく見ても興味は惹かれ、購買意欲をくすぐられる。少しばかり味見してみたい物もあったが、不用意に衝動買いしてしまいそうになるのを純也はぐっと堪えた。
 純也は頭をかき、千種の問いにしばし考える。
「あー、そうですか……俺は普通に塩が好きですけど……」
 少し悩んで純也は答えるが、千種は不満そうに眉を顰める。
「潮? あー、何でもない。ちょっとこれは各方面から苦情来そうだからな。塩か……ふむ、君はなかなか渋いな。渋い定番というか、ダンディー駆け出し的な定石感……つまらんな。フォーマットに嵌りすぎている」
 言いながら千種は腰を折り、膝に手をついて棚の中段に並ぶ商品を左から右に見ていく。
 こんな些細なことで真剣に悩む横顔はどこか愛らしく思えた。
「そんな作為があるわけじゃなくて、普通に薄めの塩が好きなだけですから」
「……君、おっさん臭い。なんか分からないがおっさん臭い。一体どういうキャラで売っているつもりなんだ?」
 前屈みになったまま、千種は淡々と答える純也を見上げる。
「俺は俺です、それ以外の何でもないですよ」
「我思う故に我あり……とでも言うのかね」
 純也の答えに、千種は表情を僅かに和らげた。何か安心するような、安堵にも似た清らかな微笑。その笑みの真意を純也は掴みあぐねた。
 何故、彼女がこんなにも嬉しそうに笑うのかが分からなかった。
「……まあ、よくは分かりませんが……そんなところなんじゃないでしょうか?」
「ふむ……君は本当に……」
 気難しげに千種は何事かを呟くが、そのほとんどを純也の耳は聴き取れなかった。純也は聞き直そうとするが、それよりも先に言葉を掻き消すように千種はカップ麺選びに戻ってしまう。
 何か、重大なことを聞き逃してしまった気がする。あまりにも日常に不釣り合いな彼女の表情、たった一瞬見ただけのそれが網膜に焼き付いていた。
 諦観と悲嘆の混じった、あまりにも弱々しげな微笑だったように思える。普段の千種なら決して見せることがないであろう、儚げな表情は忘れようと思っても忘れられないものであった。
 鮮明な残像はどれだけ振り払おうとしても消えず、いつまでも純也の意識の深層にこびりついていた。






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