其れは水色の純水が
何処にも無い様に

 雨足は弱まることを知らない。まるでブレーキの壊れた車のように、ただ加速だけを続けているように思えた。
 今も雨粒は窓に叩きつけられ、耳障りな音を室内に浸み渡らせている。外界から入り込む人工的な明かりに暗い室内は薄く照らされ、窓に張り付いた雨水の絶え間ない変化が靄のように映し出されていた。
 自室のベッドに横たわった純也は、天井をじっと見つめる。近くを車が走り抜けるたびに色のついた光が天井を染め上げていた。絶えず変化し、同一の状態が一切ない雨水の影を意味もなく眺める。
 しかし、彼の意識は全く別の方向に行っていた。
「アカオニ……ねぇ」
 隣人の言葉を繰り返す。生憎、純也に顔見知りにそんな変わった名前の者はいない。人名でないことは明らかだが、そんな剣呑な名前で呼ばれる者は一度見ただけでも忘れないだろう。
 最初は冗談かとも思ったが、彼女は至って真剣だった。だからこそ、信じがたいものだ。
 大の大人が真面目な顔をして、鬼ごっこや赤鬼と意味不明かつ荒唐無稽な話をしているというのはどこまでも奇妙なものである。あの食卓で純也は危機感さえ覚えていた。
 だからこそ食事を終え、会話に一区切りがついたところを見て早々に部屋を後にしたのだ。鏡華には申し訳なかったが、突然あんな現実感のないことを言われれば誰だって逃げ出したくなる。
 今後の付き合い方も考えた方がいいのかもしれない。親切で優しい隣人であることは認める。隣人だから仲良くしたいとも思っていた。それでも彼女の妄言に付き合う必要はない。そんなのは時間のムダだ。
 これからも今まで同じ浅い人付き合いに留めた方が身のためだろう。
「バカバカしいよな、さすがに」
 寝返りを打ち、純也は呟く。
 どう考えてもおかしい。そんなおかしなことを今まで見たこともない真面目な顔で、真剣に言う彼女はもっとおかしい。
 目を閉じ、雨音に耳を傾ける。
 関わらない方が身のためだろう。君子危うきに近寄らず――そういうことだ。
 確かに石森鏡華という女性と関わることで得る物はあるだろう。美人と交友があるというだけでも大きな利益であり、その上鏡華の考え方には惹かれるものもあった。ただそれを差し引いても彼女の怪しさは飛び抜けている。
 美景はまだいい。純也から見れば、彼女の不可思議な行動は冗談混じりであり、取り合うことに疲れることはあっても害はなく、安全だ。真面目に、何の恥じらいもなく絵空事としか思えないことを聞かされるよりもずっと平和的だろう。
 考えなくても分かる。やはりこれからも今までと変わらない関係を続けるべきだろう。それ以上深く立ち入るのは得策ではない。
 そんな分かりきったことを、純也は結論が出てもなお考え続けていた。もう終わったはずの思考を、何度も頭が繰り返す。
「……あーくっそ」
 寝返りを打ち仰向けに体勢を変えながら、純也は腕をベッドに叩きつける。ぼすんとくぐもった音と共にベッドが僅かに軋んだ。
 結論は出ているのに、その結論に納得できていない自分がいる。どうわけか、心のどこかで自分は彼女と関わりたいとも思っているらしい。
「美人だからか?」
 自分の発言に自分で苦笑する。バカバカしい話だ。
 纏まりのつかない思考の繰り返し。意味はないと分かっていても止め処なく溢れる様々な思いと判断、そして自身さえ理解しえぬ感情。
 雨音ばかりが耳を這い、酷く鬱陶しく思えた。
 騒がしい頭のせいで眠ることも儘ならない時、視界の端枕元に置いた携帯電話の液晶が冷たい光を放った。

     〆

 里見町から僅かに外れた場所に位置する句野栄(クノエ)町という都市部、その中心には一つの塔がある。周囲に連なるビルよりも塔は遙かに高く、天を衝くように真っ直ぐ伸びている建造物だ。
 地震大国である日本において、あまりにも愚かな高さ。その標高、実に二七〇メートル。この高さを超える建物は国内にも多く存在するが、この建造物が人々の目を惹き付ける理由はその形状にある。
 それは間違いなく鉄筋コンクリートの現代建築物――ビルと呼称されるものだった。形状は完全なる円柱であり、外壁は全面ガラス張りにされている。そこまではよかった。問題は、その建物は異常なまでに細かったのだ。窓の内側には円環状のオフィスが各階に一室収められている。言ってしまえば各階に一つの部屋しか存在しないのだ。塔の中心は三本のエレベーターに貫かれており、この昇降機だけが唯一の移動手段とされている。
 ただそれだけしかないために建造物は周囲のどの建物よりも細く、高さとの比率がまるで釣り合っていなかった。そのため都市部を見渡すと、一本の柱が空という天井を支えているように見えるのだ。故に周辺住民からその奇妙な超高層建造物は『塔』と呼称されている。
 正式名称は最早誰も覚えていない。最上階の展望室は一般にも開放されているが、建立されてもう八年が経過し住人は興味を失っている。稀に外部から訪れる者が利用し、その閑古鳥さえ鳴かぬ寂れ具合に愕然とするのが常だ。
 オフィスはエレベーターからでは見ることも叶わず、ガラス張りの外見に反し閉鎖されている。立ち入る者も限られた選民的な体系は、一種不気味なまでの神秘性を纏わせ、塔という言葉と奇妙な融和を果たしていた。背の低いビルが群がる中央でただ黙したまま佇む摩天楼――それはこの都市部の象徴にして異物、圧倒的な威容を維持しつつ多くの者の意識から隔絶された現実に存在しながら限りなく幻想に近い場所に君臨する建造物だ。
 貫くべき天球は曇天に覆われ、空からは幾千幾億もの冷水の針が降り注ぐ。摩天楼は逆らうように背筋を伸ばしていた。その『塔』と呼称される建造物の屋上、ヘリポートには二つの影があった。この打ち付けるような雨の中、傘を広げている気配はない。
「さて、契約内容の確認と行くとしようか?」
 ヘリポートからの眺望を俯瞰し、一人の男が静かに言う。
 傍らで同じように灰色の町並みを見下ろしているのは小さな影。子供というわけではない。その小ささは子供のそれではない。また人の影でもない。それは動物の小ささと輪郭だった。影がぐるると微かに唸る。
「何、難しい約束事を取り交わす気もないし、君の行動を著しく阻害するようなこともしない。ただ、我々の至上目的の再確認と思ってくれて結構だ。簡単なことだろう」
 また唸りが鳴る。低く短いそれは、詩の始まりの一節を考える詩人の呻吟に似ているように思えた。
「ふむ。理解が早くて助かるよ。では同志よ、確認しようか。我々の目的は分かっているな」
 また小さな影が低く唸る。その音に人影は微かに動き、顔を小さな影へと向けた。
「目標の排除? そんな大層なものではなかろう。これは単なる兎狩りだよ、同志くん。簡単な仕事だ。一匹の兎を駆除するだけで済む。それで君も私も利益を得る。分かりやすい話だろう?」
 小さな影が微かに頭を低くする。
「そういうことになるだろうな。至上目的は兎狩りだからといってそれだけをしろとは言わない。兎を一匹狩ってくれるなら、あとは何をしても構わない。ただできるだけ早い方がお互いの為だろうね。ああ、そうだ。明確な期限を設けはしない。君の天秤次第だよ」
 影はまた首を巡らし、傍らの影の顔を見上げた。長い口は犬のそれによく似た輪郭だ。口の隙間から漏れる低い音に、人影はくすくすと滑稽そうに笑った。
「信頼? 私達との間に信頼なんていうものが存在する余地がないことは分かりきっているだろう? 信頼しているのならわざわざ契約を定める必要はない。君と私は信用できないから、せめて契約を守ることを信じているにしかすぎない。そんなビジネスライクな関係に信頼という言葉は不適切だ。私は君を信じていない。君も私を信じていない。何故なら私は鬼であり、君は悪魔だ。この反逆の徒たる二者を結びつけるのは利害の一致、それだけだろう」
 小さな影は静かに頷き、ふと落としていた腰を持ち上げる。しなやかなる肉体を包むぬばたまの黒毛は水に濡れ、より一層美しい毛並みを魅せていた。引き締まった細い肉体は狩猟犬に似ている。否、等しくその影は犬なのだろう。しかし、その背中には本来犬にあるはずのない隆起があった。
「ああ、そうだな。お互い、呪われた身の上だ。私は人の世の実在する悪夢であり、君は人の空想に存在する悪夢だ。何も躊躇うことはなかろう」
 犬は頷き、大きく体を振って身に纏った雨水を周囲に撥ねさせる。その飛沫は傍らの人影にも容赦なく降りかかるが、気にした様子はない。また犬も影を顧みることはなかった。
「さあ、貴方の力をお見せください、カーシモラル伯爵」
 粛々とした口調で胸に手を当て深々と頭を下げる影の変わり身の早さを意に介すこともなく、犬はふんと鼻を鳴らした。鋭利な爪の並ぶ四本の足はコンクリートの足場を踏み締め、ゆっくりとした足取りでヘリポートの縁へと進んでいく。一歩踏み出す度に足下で水が波紋を描き、同心円を広げていった。
 重なりぶつかり合う無数の真円。伯爵と呼ばれた犬は穏やかな足取りで歩む。その背中に存在する、本来の犬にはあるはずのない大きな瘤のようなものが、突如としてその形を変えた。瘤が蠢き、背中から盛り上がったかと思うと、両脇へと腕を伸ばすように展開される。
 それは――翼だった。
 鷲に似た雄大なる翼。中型犬の輪郭にはおよそ不釣り合いといえる長大さだった。
 翼を持つ犬。およそ人知の内にあるものではない。誰もがこの光景に違和感を覚えるだろう。
 犬の冥い双眸は塔の遙か下、眼下に広がる世界を睥睨する。そして犬は、躊躇うこともなく地を蹴り、下界へと飛び降りた。人影は動じることもなく、身を投げる犬を眺めている。
 黒き塊は雨水と並び、一つの弾丸となりて地面へと急降下していく。犬の耳には風が叩きつけられ、轟音が鳴り響いた。全身に襲いかかる風は重く、加速する程に黒い体を締め付ける。
 息も儘ならぬ急降下の末、塔の中程で伯爵と呼ばれた犬は折り畳んでいた双翼を力強く広げた。翼は淡い金色の輝きを放ち、風を望むままに掴む。大いなる羽ばたき一つで漆黒の体は浮上し、世界を翔破する。
 解き放たれた悪夢は、現実の上空を飛んでいく。止めることのできない純粋なる狂気が現世を潜行する。
 まだ、その存在に気付く者は僅かだ。




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