見慣れたはずの天井に吊された電球が被った傘は純也の全く知らない花柄の暖色系だった。当然のことだ。間取りは同じでも住んでいる者が違うのだから、揃えられた家具も異なる。だからこそ、住む者の趣味嗜好や性格、好みが克明に映し出されているように思えた。
温かい橙を溶かした光に照らされたテーブルの上で、二つのフォークがオリーブオイルを纏ったアルデンテパスタを絡め取り、丁寧にそれぞれの口へと運ばれていく。食器にフォークが当たる、張り詰めたような微かな金属音ばかりが二人の足下には降り積もっていた。
テーブルを挟んで向かい合わせに座る純也と鏡華の間に交わされる言葉はない。食事という行為だけが漫然と継続している。
「…………」
沈黙に居たたまれなさを抱き、純也はちらりと向かいに座る鏡華の顔を窺う。彼女は黙々とフォークに絡めたパスタを口に運び、歯応えのある麺を皓歯で柔らかく咀嚼していた。
口紅を塗っておらずとも赤い唇はパスタのオリーブオイルが付着したために光沢を強め、艶やかな光を宿している。顔立ちは少年のようでもあるというのに、女性らしいところは女性らしく、その唇の微かな動き一つさえ繊細で官能的だ。視線を感じたのか、鏡華の伏せられていた目がふと純也へと向けられる。微かな瞬きに長い睫毛が揺れた。視線が合ってしまい、純也は反射的に目を逸らす。
「ん? どうかしたの?」
「あ……いえ、なんでも、ないです」
ぶっきらぼうに答えて、純也は気を紛らわせるようにパスタを皿から巻き取る作業を再開しようとする。しかし、鏡華はどこか上機嫌そうにテーブルの下で空気を蹴るように足を揺らしていた。
「何か気になることでもあった?」
「いや、そういうわけではないんですけど」
言い訳も見付からず、適当な言葉も探し出せず、純也は曖昧にそれだけを言う。咄嗟の機転は効かない方だった。もともと嘘は苦手だ。
鏡華は煮え切らない純也の態度に小首を傾げ、口元にフォークの先を当てる。柔らかくも弾力のある唇は宛がわれたフォークを優しく受け止めた。
「あ、もしかして髪の毛とか入ってたの?」
「あ、いや! そんなことはありません! 全然美味しいです!」
妙な誤解をする鏡華に腰を浮かせ純也は強く否定する。反射的に飛び出した言葉は思いの外強いもので、鏡華だけでなく純也自身も驚く。
「すんません、つい」
「あー、いやいや、そう言ってもらえるのは嬉しいからいいわよ、うん。でもどうかしたの? 何か気になるものでも?」
呆気に取られていた鏡華も朗らかに笑い、不思議そうに問いかけてくる。
「いや、ちょっと変な感じがしまして……」
「変な感じ?」
凛とした切れ長の目を丸くし、鏡華はまた小首を傾げる。先程から鏡華は表情をころころと変え、様々な感情を見せていた。本人にはいつも通りに振る舞っているのかもしれないが、それは純也にとって新鮮なものだった。
「ちゃんと向き合ってゆっくり話す機会なんてありませんでしたからね。それがこうやって今夕飯ご馳走になっているっていうのは、なんだか不思議です」
「あはは、私がここに来て一ヶ月以上経つけど、ゆっくり話せるような場面がなかったものね。あっても世間話くらいだったし」
学校へ行く際に偶然会った時に話し、たまにお裾分けをもらう。それが今までの二人の関係だ。会えば話をするが別段、特別に話すようなことはなかった。ただの隣人――その一言で済ませることのできる関係。今もその事実に大きな変化があるわけではないが、ただの隣人というだけでもないだろう。
「まあ、私はずっと仲良くしたかったんだけどね、鬼灯くん忙しそうでなかなか距離を縮める機会がなくて」
「ああ、平日は学校ですし、休日は掃除とかしてますからね」
純也自身、多忙な身の上だとは思う。その上で授業の予習復習などにも時間を使わなければならず、学業と家事の両立は辛いものだが、慣れてしまえば日常の一部だった。
「そうそう。ホント私より甲斐甲斐しくて立場がないわ。きっといいお嫁さんになるわよ」
「そんなことはありませんよ」
どこかズレた褒め言葉に純也は苦笑を漏らす。
「私なんて、家事だけで手一杯だもの。たまにサボるし」
あはは、と快活に笑って、鏡華は手を振った。
「でも、独り暮らしなのにここまでちゃんと料理してるんだから十分だと思いますよ? もともと夕飯の献立はこうなる予定だったんでしょう? 俺なんて、たまに米と味噌汁だけで済ませますよ、面倒で」
「あー、それはあれよ。私、食べるの大好きなの、うん。だから、作るのも苦じゃないっていうか」
「得な好みですね、そりゃ。俺は食べることにあんま執着ないですから」
「そんな感じするかも、鬼灯くん細いもんねー。羨ましいわ」
心底羨ましそうに鏡華は言うが、彼女も華奢な体つきをしている。純也との違いは、そこに女性的な膨らみがあるだけだ。食べることが好きだというが、それにしては栄養がごく一部、極めて女性が大きくしたいところにばかり行っているようにも思えた。それは女性を滅多に意識しない純也が目のやり場に困るほどに。
「まあ、私料理とかは好きでやってるけど、それ以外はあんまり、ね。ほら、掃除とか洗濯とか面倒でさ。そうは言っても、散らかったり埃っぽくなったり、同じ服を二日跨いで着るのとかは嫌だから、ちゃんとやってはいるんだけど、渋々」
「洗濯も掃除も、自分はもう日常の一部になってますからね。たまに疲れてる時とかは嫌になりますけど、それ以外だったら当然のようにやってる感じありますね」
もともと家事などが苦にならない性格ではあったのかもしれない。その外見に反して純也は几帳面で綺麗好きであり、またとてもマメな性格だ。否応もなく家事を覚えなければならない環境だったこともあって、純也にとって家事というのはとても当たり前のものだった。
「なるほどねー。うんうん、やっぱり鬼灯くんはいい子だなぁ」
「そんなことは……ないですよ」
滅多にもらうことのない褒め言葉に、純也は居心地が悪そうに目を伏せる。褒められるのは慣れておらず、そう言った言葉を受けると尻がむず痒くなってしまう。顔が燃えるように熱くなり、どうしようもない羞恥心と申し訳なさが込み上げてくる。
相手を騙してしまっているような罪悪感を覚えてしまうのだ。
「そんなことあると思うけどなぁ。鬼灯くんは独り暮らし始めて長いの?」
胡麻和えドレッシングのかけられたサラダに手をつけていた鏡華は、自信なさげに否定する純也に問いかける。純也は躊躇いがちに口を開き、一度だけ閉じた。視線が手元のフォークへと向けられ、やがて静かにそっと再び口を開いた。
「あ、いえ、自分は生まれた時からここで暮らしてます」
「あら? そうなの? じゃあ、ご両親はどうしているの?」
鏡華のさらなる問いに、純也の視線は誰の目にも明らかな彷徨いを見せる。虚空をなぞるように漂う目は彼の悩みを表しているようだ。とうとう言葉も詰まり、純也は代替の言葉を模索するが、そう簡単に見付かるものでもない。純也はしばしの逡巡の後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「父は俺が生まれる前に。母も、病気で三年前に亡くなりました」
嘘偽りなき告白。幾度も聞かれ、幾度も答えた言葉。その度に人は憐憫の感情を純也に向け、また慰めと謝罪の言葉を投げかける。そこに苛立ちを覚えるわけではない。どれほどまでに使い古された言葉だったとしても、言葉を与えてくれることに怒りを覚えることはない。また、その憐憫の感情に縋り、生きていくつもりもなかった。
だからどのような反応をされても構わない。それでも、ただそれだけの事実で周囲の空気や、相手の感情を降下させてしまうことが酷く申し訳なかった。
嘘を使えば、避けられることではある。それでも両親を虚構にしてしまうことは純也にとって耐え難い罪だった。
鏡華は、この答えにどんな反応を見せるのか、純也は少しだけ予想する。今まで幾度もこういった場面に立ち、様々な反応を見てきた。自然、ある程度の予測は立つようになっていた。彼女はどういった答えをするだろう。同情するような目で純也を見るのか、慰めの言葉をかけるのか、訊ねてしまったことを悔いるの
か、それとも――
「あ、やっぱり? なんとなく予想通りかも。生まれた場所に両親がいないって言ったら、それくらいだものね。あ、一番有力だったのは両親が海外に行ってるって奴だったから――まあ、外れなのかな?」
「…………え、そんなもんですか?」
クイズ番組を見ていて、自分の予想した答えが正解ではなかっただけだったかのように、鏡華は気さくに喋り麦茶の注がれたコップを傾ける。あまりにも軽い反応に、純也の方が動揺してしまった。
同情されたかったわけではないが、あまりにも想定外で常の調子が崩れてしまう。
「んー、何かな? 同情した方がよかったかい? でもさ、それってもう鬼灯くんの中で終わった話でしょ? 同情とか、そんな勝手な介入は部外者の私にはできないかな。それは鬼灯くんの大切な記憶への冒涜でしょ?」
「あ……それは」
鏡華の言葉が、純也の心にすんなりと浸み入ってくる。今まで名状できなかった感情に明確な形を与えられたようだ。
同様の場面で感じていた居心地の悪さ。それは知った顔で、自身の決して忘れることのできないかけがえのない記憶を冒涜されている気分だったからなのかもしれない。
純也にとって両親の死は終わったことであり、また一つの結末として完成されている。それは揺るがぬ事実であり、純也もすでに受け入れている。その記憶に踏み込み、何も知らないのに憐れむような、慰めるような、そんな言葉をかけられることに異物感を覚えていたのだろう。
「いや、鬼灯くんが同情とか欲しい人なら、同情はするわ。そりゃもちろん、両親は若い時に失うのは辛いことだと思うもの。でも鬼灯くんは見た感じ長々と引き摺らなそうだし。私が言葉をかけたところで、受け取りはするけど、あまり重要じゃないでしょ?」
「まあ、実際そうなんすけどね……」
しかし、それを何の迷いもなくさも当然のように言える彼女は豪胆だろう。少しでも予想が間違っているかもしれない、という認識があれば言葉を濁すはずだ。
「鬼灯くんはしっかり者だし、天国のご両親も安心なんじゃないかしらね」
「そうだといいんですけどね」
「大丈夫よ、鬼灯くん私よりずっとしっかりしてるもの」
鏡華の褒め言葉に、純也は渇いた笑みを零す。
「ありがとうございます。そういえば鏡華さんはどうしてここに引っ越してきたんです?」
思えばそれは今まで一度も触れたことのない話題だった。東京から引っ越してきたというのは最初の挨拶の時に聞かされていたが、それ以上のことは何も聞いていなかった。
純也からすれば、突然隣に誰もが振り返ってしまいそうな美人が引っ越してきたという事実で頭がいっぱいになり、詮索どころではなかったのだ。
あの時は東京という未開の地からやって来たということに驚いていたが、思えば首都圏からこんな東北の僻地にやって来る理由が分からない。純也達の住む深見町は交通の便も少なく、自然豊かなことくらいしか取り柄のないような場所だ。よほどの理由がなければ引っ越してくることはないはずだ。
「あー私? 私は、なんて言うんだろうね。野暮用があって、ね」
曖昧に答えて、鏡華は視線を逸らす。それは一貫性のあった彼女の挙動において始めて浮上した振れ幅だった。唇にはどこか自嘲するような笑みが張り付いている。どこか艶っぽいその表情に漂う色香は、多くの男性を魅了できるものだろう。純也もその例外ではない。
「そ、その……聞いてはいけないことですかね、深くは……」
「聞いてもいいけど、すごくくだらないことよ。本当に、くだらないこと」
自虐でもするかのように、鏡華は呟く。その目は憂うように伏せられていた。
「私はね」
艶やかで滑らかな光沢を放つ唇が柔らかく動き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。血を塗ったように紅い唇の隙間から覗く真珠のような皓歯は酷く官能的だ。
「鬼ごっこをしているのよ」
「は?」
真面目な声には不釣り合いに思える、平和的な単語に純也は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
鬼ごっこ――それは幼子達の他愛もない遊戯だ。邪気のない、単なる追いかけっこでしかない。
「唯一の違いは私が鬼を追っているということくらいかしら。鬼が追うんじゃなくて、鬼が追われる側。私はね、鬼を追ってここに来たのよ」
くすくすと、何がおかしいのか鏡華は鈴が転がるような笑声を漏らす。まるで低俗な喜劇を呆れ混じりに楽しむような微笑だった。
要領を得ない答えに、純也は戸惑う。今にも軋みそうな空気の中、天井が落ちてくるような感覚に襲われる。
「は、はぁ……そうですか」
分かっているように答えたが、純也は全く理解できていない。誰が聞いても理解はできないだろう。
年上で美人な隣人が、鬼ごっこのために越してきたと言われて納得できる人がいるとは到底思えない。少なくとも純也の周囲にそんな人間はいなかった。
「というわけで、なんだけど、ねえ、鬼灯くん?」
鼻にかかった声で鏡華は純也の名前を呼ぶ。伏せられていたはずの切れ長の目は、いつの間にか純也の目を見つめていた。
色めいた声音に自然、純也の背筋が伸びる。ただでさえ鏡華は整った顔立ちをしているというのに、上目遣いで見つめられれば普通の男性なら居住まいを正さざるを得ないだろう。
ほっそりとした吐息を鏡華が漏らす。未だに視線は純也から外されていない。
値踏みされているような気分さえ覚えた。
「……なん、ですか?」
「赤鬼――知らないか?」
その声は今まで聞いたこともない刃のように研ぎ澄まされたものだった。