純也の通う里見高校から徒歩三十分の場所に位置する住宅街に佇む五階建てマンション――その三階の一室で純也は一人暮らしをしていた。学校からも近く、周囲の治安もよく、日当たりは良好。また付近にはコンビニもあり、駅までは徒歩十分。その上、間取りは2LDK。学生が一人で暮らす場所としてはあまりにも過ぎたものだった。
降りしきる雨の中、何も入っていない鞄を雨よけにして一階のラウンジに駆け込んだ純也は、すでに濡れ鼠となっていた。小降りのうちに、と思い走ってきたが、雨は強まる一方で今はもう土砂降りだ。
純也は水の滴る前髪を掻き揚げ、後ろに撫でつける。濡れそぼって透けた制服の開襟シャツは肌に張り付いて気持ちが悪い。
フロントで小説を読んでいた管理人である青年から、気遣いで用意してくれたタオルを受け取り、純也はエレベーターに乗り込んだ。自室までの道のりに別段特別なことはない。
純也はエレベーター内で壁に寄りかかり、僅かに荒れた息を整えるために深呼吸を行う。目を閉じて、三階につくまでの間、ゆっくりと空気を吸い込み、吐き出すことを繰り返した。
今更洗濯物を取り込んだところで手遅れだろう。
「部屋干しかぁ……」
あまり気は進まない。洗濯物は天気のいい日に、ベランダで一度に干すに限る。それは純也のこだわりであった。
「あ、つか、今日の献立考えてねぇじゃん……」
洗濯物に気を取られすぎて、何も考えていなかったことに気付く。洗濯物を引っ込めて着替えたら、スーパーに行かなければならないだろう。
「何にすっかな……シチュー? いや、昨日カレーだったしな……。適当に惣菜買ってくるか……あーでもなぁ……もうインスタントでいいかな……」
ぶつぶつと一人呟きながら、今日の献立を考える。本音を言えば、一度家に帰ってからスーパーに行くということ自体面倒だった。いつもは下校の時にスーパーへ寄って、材料を買い足している。一度、家に帰るとその日一日分の疲れが出て、出かける気が起きないのだ。
「んー、いい加減野菜も摂りたいよな。昨日カレーで、一昨日は美景達と村さ来だったし……んーサラダ作って……あとは、なんだ? 魚? ああ、そういや今日は鮮魚安売りしてたな、あそこ……。今、旬なのは鮎に、穴子か……」
腕を組み、壁に背を預け独り言を呟く。不良のような人相に赤味がかった長髪、着崩した制服と柄の悪い学生にはおよそ似合うことのない言動だった。
「あー……奥さん欲しい……」
家に帰れば夕食の支度が整っており、洗濯物も取り込まれ、風呂も沸いている。掃除もしてあるに違いない。それはどれほどまでに幸せなことだろうか。夢のような暮らしだろう。
そんなことで嫁が欲しいと思う純也は、間違いなく普通の男子高生の価値観からずれていた。
「……とりあえず、美景はパスだな。あいつ料理しなさそう。ていうか、俺にやらせそう……」
結婚してまで家事全般を任せられるということは絶対に避けたい事態だった。少しくらいの負担なら目を瞑るが、全般を任されては何も変わらない。
ため息を吐き出したところで、エレベーターが三階へと到着する。電子レンジが解凍を報せるような音が鳴り、扉が重々しく開かれる。
純也は億劫そうに背中を持ち上げ、引き摺るような足取りエレベーターから出る。スニーカーには水が入り、歩く度に靴底から水が染み出して気持ち悪い。
重い足取りで廊下を進み、自室の玄関に差し掛かりポケットから鍵を取り出そうとしたその時、一つ奥の部屋の扉が開いた。
「あ、鬼灯くん、早かったね」
気の強い少年のような声と共に扉から顔を出したのは、隣人である石森鏡華であった。セミロングの髪に、凛とした強い眼差しが印象的な双眸――中性的な顔立ちをした女性だ。タイトなジーンズに薄手のシャツ、その上に二回りほどサイズの大きいパーカーを着ており、シャツの広い襟から覗く肩には下着のストラップが見えた。
おそらく大多数の人が美人と認めるであろう整った顔立ちをしている、と純也は常々思っている。鼻梁は高く目鼻立ちがはっきりとしており、ボーイッシュな出で立ちに反して体つきは女性的だ。
気さくな微笑で迎える鏡華に、純也は少しだけ背筋を正す。
「石森さん、どうしました?」
「いやね、雨降りそうだったから、鬼灯くんの家の洗濯物、こっちに取り込んでおいたのよ」
「……え?」
鏡華は当然のように言うが、家の鍵をかけ忘れたことは一度もない。また鏡華に部屋の合い鍵を渡したこともない。どうすれば明確に仕切られている隣室の洗濯物を取り込めるのだろうか。
「あ、ベランダ伝いにお邪魔させてもらったの。鍵開いてれば、そのまま部屋の中に入れてあげたかったんだけど、鬼灯くんしっかり鍵閉めてるからさ」
「…………」
しばし言葉を失ってしまった。
ベランダ伝いと言うが、部屋が仕切られているようにベランダもごく当然のように仕切られている。鉄柵でも足場にしたのだろうか。だとしても一度に取り込める量ではなかったはずだ。何度も往復したのだろうか。
「危ないですよ?」
「大丈夫大丈夫。私、実家にいた頃、玄関の鍵開いてなくて、電柱使って二階から入るとかよくやってたし。これくらいどうってことないわよ」
「小学生の頃とかじゃなくて、ですか?」
「うーん、結構実家出る前日まで?」
言いながら、鏡華は明るい笑い声を上げる。
「冗談だって言われるけど、これが結構ホントなのよね。あはは、誰も信用してくれない。実演しても信じてくれないっていうね、あはは」
「実演したんですね……」
曖昧な愛想笑いを返し、純也は視線を泳がせる。反応に困る話だった。
「まあ、とりあえず私の部屋に洗濯物全部置いてあるから、持っていっちゃうといいわ」
「あーはい、本当ありがとうございます」
「いいのいいの、神は仰ったのよ? 隣人を愛せ、と」
人当たりのいい笑みを浮かべた鏡華はドアをさらに開き、純也を部屋へと招き入れる。
「さ、どうぞ。夕飯の支度もしてないんでしょ? よかったらご馳走してあげるわよ」
「あ、いや、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないので……」
遠慮して手を振る純也に、くすりと鏡華は妖艶な笑みを見せた。
「隣人愛隣人愛、お隣のお姉さんと仲良くして悪いことはないわよ?」
そう言う鏡華の笑みは酷く肉感的で、純也の背筋に冷たい何かが走る。
何か嫌な予感がした。言うならば、健全なる男子生徒が絶対に越えてはいけない一線を越えてしまうような予感。それであって日本全国の男子生徒が待望しており、勝手に越えてしまえば全員から恨まれそうな一線だ。
具体的にそれが何なのか、純也は分かっていた。ただ脳内で明言してしまうのも虚しい。何も分からないでいた方が平静を保てるだろう。
「……いいんですかね? 昨日今日とご馳走になっちゃって」
「いいのよ、引っ越してきたばっかりでちょっと寂しいし。誰かと一緒に食べるってのはやっぱりいいわよね」
「はあ……そういうもん、すかね?」
「そういうものよ。人付き合いは大切よ」
言いながら、玄関に引っ込んだ鏡華はクロックスを脱ぎ捨てて部屋に上がる。
「さあさあ、上がった上がった」
ここまで言われて断れるわけもなく、しばし躊躇するもやむを得なく、背筋を正し純也は鏡華の部屋へと這入っていった。
自らの手で扉を閉める。軽いはずの扉が軋みを上げ重々しく閉じた気がした。自分自身の行動で退路を絶ってしまったようにも思える。
もう逃げられないだろう。踏み越えてはいけない一線に爪先が触れていた。そんな根拠もない不安を覚えながら逃げない理由が自分でも分かって、無性に苛立ちを覚えた。
ため息を吐き出し、鏡華が気付かないほどささやかな挙動で、純也は肩を竦める。
健全な男子とは美女の罠に喜んでかかるものだ。それが男の性というものだ。
鏡華の家に招かれてからの流れは恐ろしいほどにスムーズだった。
靴と共に靴下も脱ぎ捨て、鏡華が用意してくれたタオルで濡れた足を拭いたのが始まり。足を吹き終わった純也に、鏡華はごく当然のようにシャワーを浴びるように促した。雨に打たれて体も冷えているから、と鏡華は言うが、純也もそこまでお世話になるわけにはいかないと頑なに拒んだ。言い訳に着替えがないと言うものの、思えば乾いた洗濯物は鏡華の部屋に取り込まれている。着替えが見つかってしまった以上、逃げ口上はなくなりシャワーを大人しく浴びる羽目になった。
一通りシャワーを浴び、冷えきっていた体を温めて、バスルームを出るまでに時間はかからなかった。もともと間取りはどの部屋も同じだ。備わっている家電製品の扱いも分からないことはない。一瞬、他人の部屋に上がり込んでいると忘れてしまったほどだ。
鏡華が用意した服に着替えた時、洗面所に置かれた洗濯機は唸り声を上げていた。シャワーを浴びる前は動いていなかったので、純也の濡れた制服を洗濯してくれているのかもしれない。
自分の家と同じ要領で頭を吹きながらリビングに入ると、すでに鏡華はキッチンで鍋に火をかけていた。気を遣って作ってくれたホットココアを受け取り、適当にくつろいでいるように言われたのが少し前。そうして純也はリビングのソファに座って、鏡華の部屋を眺めていた。
間取りは純也の部屋と変わらないが反面、置かれている家具には何一つ同じものがない。そこでようやく、他人の家に上がり込んでいることを意識してしまう。
取り込まれた自分の洗濯物は全て丁寧に畳まれ、一カ所に集められていた。親切なことだ。これで洗濯物が適当に放り投げられていても怒らないが、畳まれていて嬉しくないことはない。
「鬼灯くんってさ、彼女いるの?」
「はい?」
突然、キッチンから質問を投げられ、純也は素っ頓狂な返事をしてしまう。鏡華は鍋に視線を落とし、火加減を調整していた。
「いや、鬼灯くん格好いいからさ、彼女の一人や二人いるのかなぁって。もしいたら、彼女さんに怒られちゃうでしょ?」
「生まれてこの方彼女なんていないですよ?」
「えー、意外ね。てっきり遊んでるのかと思ったのに」
「女とは無縁の人生送ってますよ」
美景というストーカーまがいの行動を繰り返す知り合いならいるが、純也は彼女を異性として見ることができない。彼女は例外だ。
「んーモテそうなものだけどね」
「そんなことありませんよ」
「いやー、鬼灯くんカッコいいし、礼儀正しいし、落ち着いているし、家庭的だし、私いいと思うけどなー」
慣れない褒め言葉を絶世の美女からもらい、純也は頬をぽりぽりと掻いた。
「褒めても何も出ませんよ?」
「思ったことを言っただけよ。私は」
くすくすと笑いながら言って、鏡華は純也を一瞥する。どこか観察するような目だった。
「鬼灯くん、煙草とか吸う?」
「いえ、吸いませんね」
生まれてから煙草にも酒にも手をつけたことはない。またあまり興味もなかった。
純也に答えに鏡華はまた楽しそうに笑みを零す。
「へぇ、そうかそうか、偉いね。じゃあ、煙とか苦手?」
「ああ、大丈夫ですよ。その点は結構慣れてるんで」
煙草に興味はないが、周囲には喫煙者もいるため嫌煙家というわけではない。隣で吸われても問題はなかった。
「そう? じゃあ、一本吸っていいかしら」
「あ、ええ、どうぞ? というか石森さんの家なんですから、自由に吸ってくださいよ」
「いやぁ、ほら、煙草って苦手な人は苦手なものでしょ? そういう人の前で吸うのは好きじゃないのよ、私。まあ、許可をもらえたら吸うけどね」
鏡華は鍋をかき混ぜながら煙草を口に咥え、古びた傷だらけのジッポライターで火をつける。
「……煙草、吸うんですね」
「あ、意外だった?」
「えー、まあ、若干」
「あはは、そうかそうか。お姉さん、煙草は大好きよ。煙草とビールとおつまみだけあれば、三ヶ月生きていけるわね」
快活に笑う顔も綺麗だった。屈託のない笑顔は、子供のように穏やかだ。反面、言葉には大人らしさがあり、あべこべな言動は言いようのない魅力を持っている。
元来、人間は言葉と行動が一致しないモノに神秘姓を感じるものだ。
鏡華は紫煙をうっすらと開いた紅い唇の隙間から吐き出す。
「今日の夕飯、ペペロンチーノだけど大丈夫?」
「あー、俺基本的に好き嫌いないから何でも大丈夫ですよ」
「そかそか、ならよかった。あとポテトサラダ、余った奴あるからよければ食べてよ。それと、あー、ヴィシソワーズもあった」
背後の冷蔵庫を開けて、鏡華は独り言のように喋り出す。そのか細い背中を見つめ、純也は手慰みのように頭をかいた。
理想の嫁だった。部屋も整理されている上に、料理もでき、気が利いている。文句一つない、理想の嫁だ。
「あのーあまりお構いなく……」
「ああ、いいわよいいわよ」
恐る恐る純也が遠慮の言葉を述べると、鏡華は言い終わる前に煙草を持った手を軽く振った。
「どうせ余り物ばっかりだし。むしろごめんね、残飯処理押しつけるみたいで」
「いや、そんなことは……。自分も食費浮いて助かります」
「あはは、それならよかった。お姉さんの手料理でよかったらいくらでも作って上げるわよ。うん、私も誰かと食べれるのは嬉しいし」
パスタが茹で上がり、鏡華はコンロの火を止めた。
「さ、すぐできあがるから、もう少しだけ待っててね」
「あ、なんか手伝います?」
流石にお世話になるだけというのも気が引け、純也はソファから腰を浮かす。
「ん? ああ、じゃあ、ちょっとお願いしていいかな?」
「ええ、何でもどうぞ」
「テーブル拭いておいてくれる?」
「はいっす」
立ち上がった純也は言われたとおり、食事に使うテーブルを拭き始める。
まるで同棲だった。共同生活をしている気分になる。それでも悪い気はしなかった。
純也自身、こうやって誰かと一緒に食事をするのは嫌いではない。むしろ、外食ではなく人の家や自分の家で食事をする方が好きだ。
そういった家庭的な団欒は、純也の記憶にあまりないせいだろう。
憧れ、恋い焦がれ、それでも手に入らない眩しい世界。例え仮初でも、そんな世界に触れられることは嬉しかった。
鬼灯純也は自分自身の心に白状する。今、彼は純粋に楽しかった。