今日一日の学業を終え校舎を出た鬼灯純也(ホオズキジュンヤ)は、生憎の曇り空に疲れきったため息を吐き出す。灰色の雲が敷き詰められた空は低く、雨滴を溜め込んでいるのは明白であった。おそらくしばらくと待たないうちに降ってくるだろう。
傘は持ってきていない。置き傘もない。そもそも今日の天気予報では一日晴れるはずだった。その予報が外れているという事実は、純也の心に深い憂鬱を落としていた。
「洗濯物、干しっぱなしで来ちまったじゃねぇか」
早朝、ブラウン管越しに間違った予報を伝えていた、天然パーマの気象予報士に毒づく。早めに帰って、洗濯物を畳まなければならない。そのために級友との雑談も早々に切り上げて、校舎から出た。ここから自宅まで、走って帰ろうかというところだ。
ぼりぼりと赤みがかった髪をかいた純也は、心底眠たげな顔で欠伸をかいた。起き抜けの運動は辛いものがある。先程まで純也は教室で眠っていた。まだ眼も醒めきっていないが、それでも走るしかないだろう。
欠伸を噛み殺し、目元に浮かんだ涙を親指の腹で拭う。手に提げた鞄を肩にひっかけた純也は一つ息を吐き出して、決意を固めた。
「……うっし」
一人で頷き、歩き出そうとしたその一歩目。
「やっほー、ジュンちゃん」
灰色の空模様には決して似合わない、突き抜けるような明るい声と共に純也の背中が強く押される。あまりに容赦のない力に純也はつんのめった。
「おわっ!」
情けない声を上げた純也は必死に体勢を取り直し、左足で傾斜しかけた体を支え、顔面から倒れることを何とか回避する。背中には鈍い痛み。本気で殴ったとしか思えない痛みが、疼いていた。
ため息を吐き出し、純也は勢いよく背後を顧みる。こんなことをするような人物を純也は一人しか知らない。
「おい、美景(ミカゲ)!」
純也が睨みつけた先には、長い黒髪を後ろで結い上げた女子生徒がいた。何事もなかったかのように、大輪の華が咲き誇ったような満面の笑みを小さな顔いっぱいに表現している。どこまでも明るい、ここにはない太陽の代わりを務めてしまいそうな眩すぎる笑顔だった。常に仏頂面の純也にはあまりにも眩しく、眉間
には皺が寄っていた。
形のいい唇の両端を引き上げ、円らな瞳を輝かせる美景と呼ばれた女子生徒は、チェック柄のプリーツスカートから伸びるほっそりとした子鹿のような足で純也へと歩み寄る。その足取りは上機嫌であり、今にもスキップをし始めそうだ。
「なんだいなんだい? ジュンちゃん? 眉間の皺が三本増えてますよ?」
「ああ、なんでだろうな」
つま先立ちをして顔を寄せてくる美景から視線を逸らし、純也は素っ気ない答えを返す。
「きっと起きたばかりなので一本、洗濯物干しっぱなしなのに雨が降りそうなので一本、私に突然背後からどつかれたので一本。ジュンちゃんの眉間学の専門家である朝丘美景様はそう解読いたします」
「自覚あんじゃねぇかよ」
「ぬおー」
純也がため息混じりに美景の柔らかい額を長い指で小突くと、彼女は大袈裟に首を後ろへと倒した。何事にも過剰な反応をするのはいつものことだ。
「大体なんでテメェは俺が洗濯物干しっぱなしなことを知ってるんだよ」
「そりゃ登校中にベランダに干してあるジュンちゃんのトランクスを眺めてたから、当然なわけで――」
「きめぇよ」
冗談とも本気とも分からぬ美景の言葉を一蹴し、純也は踵を返す。ここで彼女と話している暇は、今の純也にはなかった。早々に帰って、干したままの洗濯物を片づけなければ、この焦りは消えないだろう。
「あー、どこ行くのさ、ジュンちゃん!」
「帰るに決まってんだろ。それ以外に何があんだよ」
追い縋ってくる美景に振り返ることもなく、歩き出した純也は冷たく答える。
「何だよー、私と楽しいことしようぜぇ、トゥギャザーしようぜ!」
「古ぃよ、バカ」
顔を顰め、純也はそれだけ吐き捨てた。足は進むことをやめない。
スニーカーとローファー、二組の靴は校門を跨ぎ、歩き慣れた通学路のアスファルトをいつものように踏んだ。車道では車が行き交い、風を切って走り抜ける
音が何度も耳を打った。
「なんだよなんだよー、美景ちゃんがせっかく予定空けたっていうのにさー」
「お前と約束した覚えねぇし。勝手にやってろ」
今日が暇だと美景に言った覚えもない。おそらく彼女の先走った行動だろう。
「急いで帰らねぇと洗濯物が悲惨なことになるんだよ」
「隣の部屋に住んでるお姉様に頼めば?」
背中から声が聞こえた。純也は少し視線を彷徨わせる。
「隣? あー……えーと……」
「ほら、石森鏡華(イシモリキョウカ)さん」
「ああ……石森さんなー」
「ジュンちゃん、未だにたまに話すだけだからねぇ。昨日はカレーのお裾分けもらったみたいだけど。妬ましい限りだ」
「ん? それ羨ましいじゃね?」
「いえいえ、何にも間違っておりませんよ」
「は?」
意味の分からないことを言う美景に純也は眉を顰めるが、彼女は「なんでもないよー」と言って、純也の隣に並ぶ。純也の身長は高く、美景は小柄だ。必然、純也が顔を横に向けると、美景の結い上げた髪が揺れていた。
束ねられた髪は動きに合わせ尻尾のようにふらりふらりと揺れ、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。自由気ままなその挙動は猫そのものだ。純也は常々そう思っている。
猫は嫌いだった。気まぐれで、自分勝手で、振り回されているような気分になる。あまりそういうのは好きになれなかった。
「つか、なんでテメェは俺が昨日、石森さんからカレーもらったこと知ってんだよ?」
「さあ? 乙女の秘密です」
唇に人差し指を当てて悪戯っぽい笑みを浮かべているが、そんな理由で納得できるものではない。純也は昨日の夕食について何も言っていない上に、そもそも隣人である石森鏡華のことを美景に教えた覚えもなかった。普段、学校でしか会うことのない美景が知りうる情報ではないはずだ。
正直、盗撮や盗聴の類のことをされている可能性を考慮すべきだと思い始めている。隠しカメラや盗聴機が山のように見つかっても今なら驚きはしない。むしろ納得するだろう。それならば分かるのも当然だ、と頷ける。しかし何も見つからなかった場合、それこそ美景の情報のソースが不明になってしまう。その場合
は、美景の現住所が純也の家の床下か天井裏であるということを自分に言い聞かせるしかないだろう。
なかった時のことを考えてしまうと、純也はどうしても探索できなかった。本来、何もないことを祈って行うべきことで、何も見つからない時のことを怖がるのはなんとも奇妙なものだとは純也自身思っている。
「秘密すぎて怖ぇ」
「まだ序の口ですよ、ジュンちゃん。なんならジュンちゃんの体重と身長も教えてあげようか?」
「ここしばらく計ってねぇぞ。なんで俺が知らない俺の情報をお前が把握してんだよ」
「スリーサイズと足のサイズも言えるよ」
「…………」
頭が痛くなってきた。純也は眉間に親指を押し当て、低く呻くような声を漏らした。
「とりあえず俺は帰るぞ?」
「もう帰ってる途中じゃん」
「アホか。急いで帰るんだよ」
歩いて帰っているうちに雨が降ってきてしまったら、それこそ笑えない話だ。
今、純也の頭の中は洗濯物のことで埋め尽くされていた。
「えー、せっかくジュンちゃんと一緒に帰れると思ったのにさー……」
唇を尖らせて、不満を隠そうとしない美景の仕草にも、純也は全く興味を示さない。
「うっせぇな。一人で帰ってろ。俺は傘も持ってきてないんだよ」
「じゃあ、なおさら一緒に帰ろうよー、私傘持ってるよー」
「よし、よこせよ」
「相合い傘以外受け付けません。それ以外は私の耳が右から左へ受け流す」
「んじゃいらね」
すぐに美景から視線を切り、純也は歩調を早める。後ろで何か騒いでいる美景の言葉は一切取り合わず、家路を急ぐことにした。そう思った矢先、鼻先を冷たいものが掠める。
「あ?」
嫌な予感を覚えながら顔を曇天の空に向ける。光のない空、灰色の雲の天蓋。頬に冷たい何かが落ちた。後を追うように空から無数の細い糸が落ちてくる。少しずつ勢力を強めるそれは間違いなく雨滴だった。
降ってきた。
「マジかよ……テメェとくっちゃべってるせいで降ってきちまっただろうが!」
「ならもう失うものはないね! さあ、二人でどこまでも行きましょう! 愛しき背の君!」
「訳分からねぇから! あークソ! 先行くぞ!」
「え!? あ……ちょっと!」
美景が呼び止める間もなく、純也は走り去っていく。行き場のない手を彷徨わせ、胸元に引き戻した美景は、少しだけ寂しそうな顔で遠くなっていく背中を見つめた。
胸元に置いた手をきゅっと強く握り締める。次第に強くなっていく雨の中、純也の背中はあっという間に小さくなっていく。
「なんだよ……もう」
いじけたように吐き捨て、美景は地面を軽く蹴った。