深き森の奥で

 夥しいほどの死を溜め込んだ森は、噎せ返るほどに濃厚な鉄の臭気に充たされていた。宵闇に沈んだ景色の中に浮かび上がるのは針葉樹の無骨な幹ばかり、どれだけ草の茂る地面を蹴って駆けようとも、視界が開けることはない。冷たい夜の色と地面へ垂直に打ち込まれた樹木だけが繰り返されるばかり。
 頭上は木々の伸ばした枝に茂る針葉の群衆により蓋をされ、僅かに木漏れの月光が落ちていた。柔らかく地面に広がる月の光は湿り気を帯び、濡れているかのようだ。
 不規則に乱立し、それであって開けることなく密集した木々の隙間を吹き抜ける風は冷たく、引き裂くように体を叩く。肌は冷えきり、感覚さえも麻痺している反面、体の芯は火照り疼くような熱を訴えていた。
 夜に染め抜かれた深い森を、少女は息急き切って駆けていた。
 齢は十五ばかり。その肢体は華奢で、黒い服から見える腕は手折れてしまいそうなほどにか細い。頬は僅かに上気しているにも関わらず、肌は雪のように白く生気も薄い。吐く息は熱く、紅い瞳は虚ろに繰り返される森の情景だけを見つめている。
 ただひたすらに、もつれ合ってしまいそうな足で地面を蹴って、突き進んでいく。
 肺は呼吸をするたびに痛みに哭き、足には地面を踏み締めている実感すらない。走り続けたせいなのか意識は朦朧としており、走ることだけを頑なに続けていた。
 息は乱れ、荒い呼吸を繰り返すたびに薄い胸が激しく動く。
 鉄の臭いが鼻を衝く。まだ止まるわけにはいかない。止まれば最期、鉄が少女を包囲する。
 足音も立てず、影さえない追跡者の存在を少女は知っていた。鉄は血の臭い――どれだけ巧妙に気配を隠蔽しようと、その手に携えるモノに染み着いた臭いま では洗い流せない。
 黒い髪を振り乱し、少女は付き纏う死の幻影からがむしゃらに逃避する。最早、全身の感覚は喪失し、痛みさえも分からない。ただ抑えられない震えが限界を伝えていた。
 森に溜め込まれた夜色の死が、次第に少女の視界を埋め尽くしていく。
 未だ森は終わらない。気が遠くなるほどの時間走り続けているのかもしれない。或いは時の長針は一周さえしていないのかもしれない。今の少女にはもう分からない。
 苦しみと屈辱と敗北感が彼女に重くのしかかる。追い詰められた状況に対する絶望感よりも、追い詰められているという事実に対する悔しさに涙腺が熱くなった。
 皓歯が食い込むほどに唇を噛み、それでも立ち止まることはしない。足は最早、止まり方を忘れたように地面を蹴り続けている。意識せずとも体は最も速く走ることのできる動きを連続するだろう。
 繰り返される行為、繰り返される景色、変わらない鉄の臭い。間断なく与えられる刺激は、どこまでも続く螺旋の回廊に似ており、決して終わらない悪夢を見ているようだ。
 森は閉じない。もしかすると森に出口はなく、決して終わることのない迷路を巡り続けているのかもしれない。そんな冥い幻想が少女の脳裏を冒した。
 それでも逃げなければならない。逃げ続けなければならない。例え醒めない悪夢だとしても、それ以外の道はない。この先にあるかも分からない生を掴み取るために、止まることは許されなかった。
 約束を果たさなければならない。果たさなければいけない約束がある。
 まだ死ぬことは許されない。
「あ……!」
 その時、あれほどまでに繰り返し続けた行為に歪みが生じた。足がもつれ、体が均衡を失う。走り続けた体は、まだなお走ろうとするように前へと傾いた。
 続き続けた視界が転じる。彼女の視界を暗い緑が埋め尽くした。
 何かを求めるように、たおやかな右手は進むべき方向へと伸ばされたままに、少女の痩躯は倒れていく。
 鉄の臭気が近づくのを感じた。ひたすらに維持し続けた距離が一瞬のうちに消えていく。
 森は閉じず、少女の命だけが綴じられようとしていた。
 夜空にあるであろう蒼い満月は今も見えない。
 刹那、少女は虚ろな紅い瞳に何を映すのか。
 終わりを見たのか、見えぬ月を視たのか、或いはそれ以外の何かを幻視(み)たのか。

     〆






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