人のカタチ、獣のカタチ




「ホオズキ……ジュンヤ……」
 血を塗ったように紅い唇が言葉を紡ぐ。それはどこか文面をなぞるようで、曖昧で不確かなものであった。
 静かにゆっくりとした声で囁き、細い指に挟んだ煙草を喫(の)む。
 暗い室内。光はなく、吸い殻色の雲に空を塞がれた今宵、射し込む月明かりさえもない。外界の人工的な微かな明かりだけが頼りだった。彼女はその暗い部屋の中、光を求めるようにガラス戸の側に立ち、下界を静かに眺めていた。煙草の煙を吐き出し、鋭利に細められた双眸は落ちていく雨粒全てを観察しようとするかのように見つめている。凍てついた視線は、湿気の籠もり蒸し返す部屋の中でさえ冷たいものだ。
 彼女――石森鏡華は、純也に見せたものよりもさらに硬質で冷徹な表情を浮かべていた。
「まさか……ここで、そんな懐かしい名前を聴くことになるとはな」
 自身が呟いた名前に鏡華は嘲るような微笑を零す。
 周囲には静謐が降り積もり、澄んだ雨音だけが染み込んでいた。その静けささえまた鋭く、耳に突き刺さる。
「親はいない……か」
 鏡華は先程、純也から引き出した情報を参照する。もともと表札を初めて見た時から推測はしていた。あまりにも荒唐無稽な予想で確証はなかったが、可能性は拭いきれないものではなかった。一縷の可能性に賭け、距離を縮めたことは間違いではなかったかもしれない。
 博打が上手くいった手応えに、鏡華は優越感さえ覚える。背中を這い上がる感触。言葉で表せば醒めてしまうほどの圧倒的な絶頂感。全身に電撃が走り、心が震える。
「……やはり赤化血種(ルペディアム)の血統、か。喪われた血筋(ロストブラッド)――これを使わない手はないな」
 彼女の脳が、狡猾な采配を演算していく。優秀な手駒として使える人材だ。まずは彼を懐柔し、完全に支配下へ置くことから始める。その策略を巡らせなければならない。
 容易い。人の心を操り、術中に嵌め、支配することなど、今まで何度もしてきたことだ。大した労力など要さない。どんなものも捧げることを躊躇わなければ、人の心など簡単に虜にできる。捧げるものが自分自身だとしても躊躇しない、凍り付いた心があれば。
 相手が子供ならなおさらだ。浮ついた感情に溺れさせれば、いくらでも利用できるだろう。男の持つくだらない使命感をくすぐってもいい。それだけで彼らは命を賭けてくれる。
 人の心を弄ぶことに対する罪悪感など、彼女からはすでに欠如していた。目的のために手段は選ばず、ただ目的の達成のみを第一とする。彼女の心は確かに凍てついているのだろう。
「黒には黒を、白には白を、青には青を、そして赤には赤を……これで、奴を殺せるぞ」
 くつくつと顔に右手を当て、鏡華は不敵に笑う。唇の両端を吊り上げ、事実を噛み締めるように、何度も何度も咽喉の奥で笑った。
 暗い部屋の中、窓辺に立ち、不気味に肩を震わせ笑うそのか細い背中は、不在の月が幻視(ミ)せた狂った幻影(カゲ)と願うほどに歪だ。
「嗚呼、殺せるぞ……私は、お前を、殺せる。ようやく届いた……赤に抗する赤が、この手中に収まった時、私は、お前を、殺す。嗚呼、殺してやる。殺してやるとも。お前があの時、そう教えたように、私は、お前を、殺す。殺し尽くしてやる。極細(ゴクサイ)の肉片の一片に至るまで、極彩の死に染めてやる。そうだ、私は、お前を、殺すんだ。殺す、確実に、絶対に、なんとしても、一寸の狂いもなく、油断も抜かりも間違いも一切なく、真実、現実として本当に、貴様を殺す殺してやる殺し尽くす……嗚呼、待ちわびたぞ……どれほど焦がれたと思う? 貴様を殺す、その執念だけが私の血肉を構成し、魂を成している。貴様への殺意で私は出来ている。貴様を殺す。ただ殺す。そうだ、殺す……貴様を殺さずして何を殺すというのだ……なあ、そうだろう?」
 くしゃりと前髪を握り、左眼に掌底を押し当て、鏡華は譫言のように、ここにはいない誰かへと語りかける。独り言と呼ぶには、彼女の眼が誰かを視つめすぎ、語りかけと呼ぶには、彼女の言葉はあまりにも研ぎ澄まされすぎていた。
 瞳の最奥に宿っているのは狂気の灯明。彼女の眼には今、ただ一つのものしか映っていないのだろう。
 例え人でなしと、人外と、外道と、罵られようと、手段を選ばない衝動(イド)と自我(エゴ)が彼女を構成していた。それはきっと楽園への階段を転がり落ちる小石のように、逆らえぬ亡者のような法則によって引き落とされるしかないのだろう。
 良心の呵責がないわけではない。自身がどれほどの罪を犯し、卑劣な行為に手を染めたか、鏡華は自覚している。しかし、それを厭わないだけの狂気が彼女の内側で汚泥のように煮立っていた。
「誤謬も、欺瞞もなく……私は、お前を、殺す、殺す、殺す」
 掠れた声で何度も彼女は憎悪を吐き出す。そうでもしなければ膨張する殺意に身も心も引き裂けてしまいそうだった。
 指に挟んだままの煙草はその半分が脆弱な灰となり、自重を支えることができず、腐肉のようにフローリングの床へと崩れ落ちていく。
 そんなことには気付かず、ただ彼女は呪詛を紡ぎ続けていた。その時、背後で玄関の鍵が外される音が部屋にまで響き渡る。その音はあまりにも小さなものだ。しかし、金属質で重い音は、無音の部屋には雑音と呼べるほどに大きなものであった。
 鏡華は目を細め、自室の扉越しにリビングへと踏み入る者の気配を探る。フローリングの軋む微かな音さえも、今はよく聴き取れる。
 雨音はただ静寂に馴染んでいた。
 しばらくと待たず、部屋の扉が外側から開かれる。
「ただいま」
 闇より投じられた声に、鏡華は自虐するような笑みを浮かべた。穏やかでありながら割れ物染みた笑みは深い闇と微かな光が見せた幻影だったのだろうか。
「ああ、なんだお前か。おかえり」
 彼女の声は、未だ掠れていた。



「あ……?」
 純也は目の前に広がる灰色の空と、頬に降り注ぐ鬱陶しい雨粒に、一瞬状況が把握できず純也は惚けた声を上げる。
 視界の端には健やかに育つ木々の先端が見えた。ぶつ切れの記憶を手探りで追えば、そこが外人墓地の森だということはすぐに思い出せた。
 同時に記憶から釣り上げられるのは、木蓮の木に寄り添うように気を失っていた少女、喋る黒犬、悪魔と名乗る人形の何か、そして突き刺された心臓から燃え上がった炎に全身を焼かれる光景。
 しかし、それが真実だとするならば、純也が今ここで空を眺めることができているのはおかしい。
 夢でも見ていたとでもいうのだろうか。こんな森の中でいつの間にか眠っていたのだとしたら、相当疲れているのかも知れない。
 早く家に帰って休むべきだろう。もともとこの道を選んだのは早く家に帰るためだ。最初の目的通り我が家を目指そう。思い立ち、体を起こそうとした瞬間、視界の端から何かが割り込んだ。曇天の空を隠したのは、癖の強い黒い髪と切れ長の眼。端整な若者の顔が純也を覗き込んでいた。
「ヒャア、マジで生きてらあ! すげぇな、なんで生きてんだ?」
「な……!」
 同時に起き上がろうと動かした体に痛みが迸り、純也は顔を歪める。
 夢では――ない。
 現実だ。純也は確かに心臓を突かれ、全身を炎で包まれた。だというのに、どうして今も生きているのか純也には分からない。火傷さえ体にはなく、服も汚れはしたものの焼けている様子がなかった。
「おいおい? どうしたよ? せっかく生きてんだ、もう少し嬉しそうにしてもいいんじゃねぇか?」
 ひらひらと純也の顔の前で手を振り、グラーシャは愉快そうに薄気味悪い笑みを見せた。状況を再認識する。一命を取り留めて尚、危険であることに変わりはない。
 目の前にこの悪魔がいる限り、安全な状態はありえないだろう。
「一体、何をやったんだ? テメェ? こっちに来る機会は何度もあったし、それなりに殺してきたつもりだが、生き残ってる奴は初めてだ。魔術師か?」
「うるせぇ……! テメェが未熟だっただけなんじゃねぇの?」
「あん?」
 気さくに向けられていた笑みが一瞬、地を這う虫に対する不快な表情に変わり、気付いた時には純也の体が地面を転がっていた。頬に残る熱のような痛みから、蹴られたのだと理解する。
 口内に広がる鉄の味わい。どこかを切っているようだ。舌で口の内側を探ると、傷口はすぐに分かった。
「舌切れた? 切れてねぇ? そりゃよかったねぇ。んじゃ、まあ」
 戯けた口調で言いながら近づいてきたグラーシャは、純也の側にしゃがみ込み、髪を鷲掴みにして乱暴に頭を持ち上げた。頭皮にかかる痛みに、純也は顔を顰めながらもグラーシャを睨み付ける。
「ハハァン、いい目付きだねぇ? さっきは腐ってるとか言って悪かったなぁ。いや、マジ申し訳ねぇ。ホントだぜ? で? 一体何やったんだ?」
「知らねぇっつってんだろ……!」
「んだよ、つまんねぇな!」
 グラーシャは何の前触れもなく、純也の顔を雨に濡れた地面へと叩きつける。突然のことで、純也の口に泥が入り込み、不快な感触に満たされた。顔面には鋭い痛みが走り、純也は泥を吐き出すように咳き込んだ。
 悪魔にとって純也など単なる遊び道具なのだろう。加虐心を満たすために生かされているにしかすぎない。彼の気紛れで純也は死ぬことになるだろう。
 逆らえない。万に一つも逃げ道がない。状況は絶望的だ。
 草を握り締め、純也は歯を噛み締める。助けると言っておきながら、何も出来ずこうして地を這いつくばっている姿が惨めで、ただただ悔しかった。何もすることができない。せめて助けようと思った見ず知らずの少女を生きて逃がすこともできない。
 無力だった。どこまでも無力だった。吹き荒れる風に為す術もなく宙を舞うことしかできない虫のように無力だった。
「マジつまんねぇなぁ。たっく、手応えも何もねぇぞ、ガキ? 身の程を知れや。そうやって粋がってっから死ぬことになるんだぜ? いい勉強になったねぇ。あ、もう死ぬんだっけ? つぅか俺に殺されんのか? ヤー、残念だったねぇ。ホントカワイソ! 俺のせいか? いや、マジゴメーン!」
 今や啖呵を飛ばすこともできない。明かな挑発に乗って怒鳴る気力もなかった。
 ただ自らの無力さに平伏し、与えられる死を享受するのを待つしかない。
 グラーシャは悠然とした足取りで、木蓮の木の側まで歩いて行く。地に倒れた純也は少女へと爪先の尖った黒い靴が近づいていくのを、ただ見つめるだけだ。
「全く……ちったぁ兎狩りを楽しめると思ったんだがよ、このザマじゃあねぇ。少しは骨があるクソガキがいるかと思えばただの雑魚だしよ。つまんねぇな、退屈すぎだぜ」
 愚痴を吐きながらグラーシャは少女の前にしゃがみ込み、その人形のような顔を覗き込む。薄い瞼を下ろし、静かにただそこに存在し続けるだけの少女の血色の悪い顔を見つめ、グラーシャは面倒そうに頭をかいた。
 艶やかな黒い髪は水を吸い顔に張り付き、纏った衣服も肌に密着して細すぎる肢体の輪郭を露わにしていた。少女らしい小さな膨らみを持った胸はゆったりと上下し、彼女がまた生きていることを示している。
「よう、兎? しばらく見ねぇうちに随分と情けなくなっちまったじゃねぇか。カハハ、いつもの威勢の良さはどこに行っちまったんだ?」
 腰のホルスターからナイフを一振り引き抜き、グラーシャは刃の峰で少女の顎を掬い上げる。意識のない少女はされるがまま、グラーシャの方へと顔を上げさせられた。
 純也はぬかるんだ地面に指を食い込ませ、悔しさに顔を歪める。
 このまま倒れていてはダメだ。それこそ純也は何も成せないままに死ぬことになる。せめて最後まで無様に足掻き藻掻かなければ。
 痛みを訴え続ける体を鞭打ち、純也は地面を這いずり二人の方へと少しずつ近づく。
「おい……! 俺を無視すんじゃねぇ……! 俺はまだ生きてるぞ……!」
「うるせぇな、テメェにはもう用無ぇんだよ。後でゆっくり殺してやっから、そこで待って――うおっと!」
 純也の方に振り返ったグラーシャが少女へと向き直ろうとしたその時、横合いから飛び込んできた影が、グラーシャと少女の間に割り込んだ。蒼き一閃が瞬き、グラーシャは背後へと飛び下がり、その一撃を恐るべき反射能力で躱し切る。突然の闖入者に、純也は目を瞠り、グラーシャもまたこの予想外の事態に僅かながらも動揺しているようだった。
「テメェ、何しやがる!」
「その問いは聊か不適当ではなかろうか? この状況、止めに入らぬ方が野暮というもの。仔細を知らずしても、このような状況は看過できるものでないはずだが?」
 穏やかにゆっくりと、若い男の声が聞こえた。グラーシャのものではない。声から感情は排され、どこか機械的に思えるほど淡々としている。聞き覚えのない声の主はグラーシャと少女の間に割り込んだ、蒼い蒼い影だった。
 腰まで届く、海原のように濃厚なる蒼い長髪を真っ直ぐに伸ばし、空のように澄んで柔らかい青い衣を纏った、深海のような翡翠の瞳を持った、どこまでも蒼く青い青年だ。その左目にはなめし革の眼帯が嵌められ、完全に覆われていた。
 肌は透き通るように白く、それはまるで蝋人形のようでもある。蒼い髪は所々細い三つ編みの束にされ、それを結ぶのは黒い襤褸布。アジアの遊牧民族のような、麻で出来た衣装を纏った風采は異邦人のそれだった。
 右手の中指には白銀の細い指輪を嵌め、左手の甲には何重にも包帯が巻かれている。包帯の上には黒墨で、何か紋章のようなものが刻まれていた。筆で描かれたと思われるそれは達筆で、力強いものだ。
 背中には大きな琵琶を背負った彼の茫漠とした言動は浮き世離れした吟遊詩人のようである。
 ナイフを逆手に握り直したグラーシャは低い体勢で構えを取り、蒼い男を睥睨した。初めて露わにされたグラーシャの敵意。今の今まで、純也の前では決して見せることのなかった表情だ。
 純也はきっと敵としても認識されていなかったのだろう。それは屈辱以外の何物でもない。しかし、この状況は希望的に捉えるべきなのだろうか。
 正体は分からないが、純也と少女を助けるために飛び込んできたらしい男を、グラーシャは敵として認識している。それはつまり、グラーシャが敵だと認めるほどの実力があるということなのだろう。 
「……テメェ、人間じゃあねぇな。どこの使い魔だぁ?」
 グラーシャの問いかけに、蒼い影はくすりと笑う。
「いや、申し遅れた。我は守護式:蒼(コード:ブルー)――名を八咫と申す。以後、お見知り置きを、伯爵殿」
 粛々と道化のように深く頭を下げ、八咫と名乗った男はグラーシャの上目遣いで顔色を窺った。対して、グラーシャの顔は気味が悪いとでも言うように不快感で歪んでいる。
「守護式(コード)だぁ? ざけんじゃねぇぞ。そんなもんがこんな場所にいてたまるかっつぅんだよ。このキチガイが」
「ふふふ、しかし君は私を観測(ミ)た。それが事実だ。観測とは無謬の事実なのだよ、伯爵殿」
「くだらねぇ戯れ言ほざいてんじゃねぇよ。死んどけ、使い魔」
 言った瞬間、グラーシャの姿が霞んだ。足が霧になる。腕が掻き消える。無論比喩だ。常人の眼ではその光と同化する速度を捉えきれないだけのことだ。
 時に融けるようにグラーシャの存在は世界より消失し、瞬きの間もなく八咫と名乗る青年へとナイフを振りかざしていた。一瞬、刹那、弾指、否、それよりも短い――短いという言葉さえ差し入る隙間のない時間、言葉を発するよりも早く、他者が認識するよりも遙かに速く、グラーシャはナイフを振り抜いた。
 観測した現在さえ時の幻――残像でしかない。全ては過去、過ぎ去った残滓のみだ。
 グラーシャの癖が強い髪が揺れ、ナイフが銀の境界線は虚空に刻み込む。滑らかな曲線の終端は、八咫の首へと飲み込まれるはずだった。事実、青年の手折れてしまいそうな首にナイフは叩き込まれたのだ。だというのに――
「なっ……!」
 鳴り響いたのは筋肉繊維を引き裂く音でも、首が落ちる濡れた音でもなく、硬質で甲高い金属音であった。雨を振り払うように曇天の空へと突き抜ける澄み切った冷たい音。
「世界律改竄――言うならば対象の存在概念の変革――謂わば疑似的存在昇格(パラノイアパラダイムシフト)。つまりは構築式の駆動及び世界律譜面配列の改竄」
 うっとりと、八咫は囁くように言う。その指先は、首に叩きつけられたナイフの峰をそっと撫でた。ナイフの刃は首筋に触れている。それどころか全力を以て、グラーシャはナイフを振り抜いていたはずなのだ。それなのに白刃は、八咫の首の皮一枚に受け止められていた。
 あの音はおよそ首と刃物がぶつかり合う音ではない。刃物と刃物がぶつかり合う音であった。
「ふふふ、いくら速くとも、どれほど剛に訴えかけようと、存在概念を高密度の金属に改竄した表皮は断ち切れぬよ」
「存在改竄だと……!」
「ただの使い魔と高を括った君の失策だよ。さあ、稽古をつけてあげようか」
 ぴんと指先でナイフを弾き飛ばし、グラーシャは咄嗟に背後へと飛び下がる。
「なんだてめぇ……! その存在構築式はなんだ? 使い魔とは違う。俺達とも違う。何物だ?」
「守護式(コード)は守護式(コード)――ただの式にしか過ぎない。それだけのこと。お主が悪魔であり悪魔でしかないように、私もただの式に過ぎないのだよ」
「意味分からねぇよ、クズが!」
 漠然とした八咫の表現に苛立ち、グラーシャは八咫へと一瞬で肉薄して斬りかかった。一合目、互いの呼吸を肌で感じられるほどの距離で、グラーシャはナイフを振り上げる。否、純也は振り上げられたという動作を認識して、初めて振り上げるという事実があったことを理解した。結果を知ることによって、ようやく過去に起こった起因を認識することしかできない。グラーシャの速度はまさに神速と評すに値するものだろう。
 対して、八咫の反応も速かった。あまりにも速すぎた。その至近距離、常人なら一撃で仕留められるはずの閃きを指先一つで弾いたのだ。
 金属同士がぶつかり合う甲高い音が耳朶を突き刺し、ナイフが虚空へと舞い上がる。グラーシャは即座に新たなナイフを引き抜き、袈裟懸けに斬りかかるが、矢継ぎ早の攻撃にも八咫は一歩下がるだけでひらりと躱してしまう。風に揺れる柳のように、それが必定であるかのように、八咫は幾重にも重なる神速の太刀筋全てをひらりひらりと避けていく。
「空に律動を刻むのは構わないが、この調子のいい律動、幾分眠気を覚えるぞ?」
「うるせぇよ、使い魔風情が!」
 吠え、グラーシャが雷が如き刺突を放つ。心臓を狙ったその一点の閃きを、八咫は指先で刃物を挟むことで捉え、刃を軽々とへし折った。角砂糖のように容易く砕け散る金属。八咫の動作に力を込める動きはなく、まるで硬度のない物質のように砕け散ったが、あれが金属であったことは明白だ。それだけの力を、彼はか細い体に内包していた。
「君達は謂わば異界の存在。故に存在構築式も確固たるモノでなければ、この世に留まることはできない。ましてや質量を持って、現世に干渉できるような存在概念を世界律に定着させるならば尚更のことだ。だからこそ、その存在概念を改竄することは難しく、仮に出来たとしても定着させた概念の均衡が崩れこの世に留まることさえ出来なくなる可能性が多分にある。反面、私は元よりこの世界に然るべくして存在している概念――また構築式だ。改竄することは容易いよ、伯爵殿」
「そりゃご指導ご鞭撻ありがとーございますねぇ! でもな、御託はいいんだよ! テメェは俺に殺されろ! それが俺とテメェの接続概要の終端だっ!」
 怒声を上げ、グラーシャは腰に両手を回し、ホルスターからそれぞれ一振りずつナイフを引き抜き、腕を前方に振り抜きながら握った得物を八咫へと投擲する。
「終端、端か。ふむ、結末でないのであれば、そこに魅力は感じぬな」
 八咫はどこか神妙に頷き、即座にその場から飛び上がる。今まで最小限の動きで避けていた八咫にしては大きな挙動。翼でもあるかのように飛び上がった八咫は、そのまま木蓮の傍らに着地した。
「そいつぁ渡さねぇ!」
 木蓮の根本で眠る少女を抱え上げる八咫に、グラーシャはナイフをさらに三振り投擲する。飛来したナイフを、八咫は麻布の袂を翻して絡め取り、その力を無効化する。袂の内側より八咫は淫靡な指使いでナイフを一つ引き抜き、指先の力一つでグラーシャへと飛ばした。
 グラーシャは自身の心臓目掛けて投げられたナイフを新たなナイフで叩き落とすが、その隙に八咫の体は再び中空へと舞い上がっていた。
「クソッタレが!」
 さらにグラーシャはナイフを十指に構え、八咫へと一斉に放つ。それぞれに四、諸手で八――八条の銀の軌跡が空に刻み込まれ、虚空で身動きもできない八咫へと殺到した。
「存在概念拘束制御構築式、第八十八番開放。該当範囲の譜面改竄式を停止、世界律譜面の解放、及び適用実行。開錠式駆動」
 ゆっくりと八咫の唇が言葉を紡いだ刹那、八咫の薄い体が風に吹き上げられる一枚葉のようにさらに上空へと舞い上がる。
 軌道上から目標を失ったナイフは空しく空を裂き、宵闇に飲み込まれていった。質量を喪失したようにふわりと浮き上がった体は質量を取り戻したように急降下し、純也の傍らへと音もなく着地する。突然、側に飛来した存在に純也は驚き目を見開いた。
 膝を折って着地の衝撃を殺した八咫は、しゃがみ込む形で純也の耳元に顔を寄せる。
「少し飛ぶぞ、少年よ」
「は……? てうわ!」
 理解するよりも早く、純也の体は八咫の右脇に抱え込まれた。左に少女、右に純也。二人ともそれほど体重があるわけではないが、純也もそれなりの体重がある。八咫のような細い体で軽々と持ち上げられるはずはないというのに、八咫は眉一つ動かす素振りもない。
「さて、心の準備は万全か?」
「いや、まだ……」
「ふむ、では行こうか」
「ちょ!」
 止める間もなく、純也と少女を抱えた八咫は膝を折って地面を蹴り、空へと舞い上がった。胃が下がるような感覚と共に純也の視界が上昇し、背筋に悪寒が走る。頬を重力に引っ張られるのを感じながら純也は、眼下に乱立する木々を捉えた。
 体が木々よりも高い場所にまで持ち上げられていることを理解し、胃液が逆流するのを感じる。高所が苦手なわけがないが、生身で空に飛び上がることに恐怖を感じないほど鈍くはない。今純也を支えているのは、腰に回された細い腕一本のみだ。その腕に相当の腕力があると分かっていても、腕一本はあまりにも心許なく、嫌な予感を過らせる。
「待ちやがれ!」
 純也の腹の下で、グラーシャの怒鳴る声が聞こえる。遠く離れてしまった下界を確認するほどの度胸は今の純也になく、グラーシャの姿を一瞥することもできず、ただ前を見つめているしかない。
「ふむ、ナイフを投げられるとまずいな」
 一言呟き、八咫は指先をついと伸ばし、眼前にまで迫った木の尖端を絡め取り、力任せに握り締めた。巨木の野太い幹に八咫と純也、そして黒兎と呼ばれた少女の全体重がかかる。幹が撓り、背骨のように柔軟に反り返っていく。
「存在概念拘束制御構築式、第八十八番を起動、並びに第二十一番を開放。該当範囲の譜面改竄式を停止、世界律譜面の解放、及び適用実行。開錠式駆動」
 頭上から聞こえる八咫の顔。純也の顔の脇で八咫の長すぎる蒼い髪が揺れ踊り舞い翻る。木の幹がさらに反り返り、限界まで歪曲した木は悲鳴のような軋みを上げた。三人の体重を合計しようと、巨木をここまで歪める程の重量はないはずだ。何か、さらなる重量が付加されたように木が引かれていく。
 反り返り木は引き絞られた弓を連想させた。ならば放たれるのは必然矢なのだろう。つまり番えられたのは考えるまでもなく彼らなのだろう。されど、その矢はどこへ放たれるのだろうか。何を射貫くのだろうか。
「第二十一番起動、第八十八番再解放。翼撃(ハバタ)け、我が翼よ」
 呟くと同時に巨木を歪めていた重量の大半が消失し、幹はあるべき形に戻ろうと撓る。その力を利用し、八咫の体は上空へと射出された。昇竜の如き速さで舞い上がる体、抱えられた純也にも負荷はかかり、割り開かれていく風が全身に打ち付けられる。疾風の唸りが耳朶を叩き殺到した。
 目が、口が、渇く。降り注ぐ雨を弾き、付着した水さえもが下界へと追いやられていく。
 ただ迫り来る低い空だけが、純也の視界を埋め尽くした。その時純也は舞い散る黒い羽根を幻視した。黒く艶やかな羽根が虚空で翻る様を見た。そうして、鴉を見た。
 傍らで翼撃く、巨大な鴉を錯覚(ニンシキ)した。しかしそれは突き詰めてしまえば泡沫の幻覚(ユメ)。
 ただの一瞬、垣間見えたそれは弾け消え、現実が再び駆動する。
 八咫は空を滑るように降下し、下方に広がる暗緑の大海に身を沈ませる直前だった。まるで翼でもあるかのようにゆったりとした速度で沈み込んでいく三人の体。割り入った木々の枝が服を引き裂き、肌に爪を立てる。まるで生の光を妬む亡者共の手のように。
 茂みを掻き分けた先、草木の絨毯が茂る地面へと八咫は衝撃を殺す動作もなく軽やかに降り立った。
 純也と少女を静かに地面に下ろし、八咫は髪を掻き上げる。
「第八十八番起動。該当範囲の譜面改竄式を再起動、世界律譜面を改竄、及び適正実行。施錠式駆動」
 八咫の周囲で風が巻き上がり、彼はゆっくりと息を吐き出した。
「ふむ、やはり少し応えるな。この体に留まりすぎたか」
 言って、八咫は呆然と傍に立ち尽くす純也を一瞥した。
「少年よ、まだ動けるだろう?」
「あ、ああ……つぅかあんたは一体ナニモンだよ……?」
 尤もな純也の質問に、八咫はゆったりと穏やかに微笑む。
「八咫は八咫だ。単なる守護式。公式に過ぎぬよ」
「は、ハァ?」
「つまりは式を解くのは個体意志を保持する観測者。私が君を助けるのではない。私が君を助けるように式を展開させた者がいるということさ」
 要領を得ない八咫と名乗る青年の言葉に、純也は理解を放棄した。少なくとも敵意はなく、純也を助けるためにここに来た味方と思って間違いはないらしい。
「では少年よ、君はあの少女を抱えて、この変異事象因子集合領域の境界線外に行くことはできるかな?」
「……あー……なんだ、つまり、ここから逃げろってことか」
「そういう表し方もあろうかな。私はここでしばらくあの伯爵殿を足止めしよう。できるのは足止めまで、完全なる停止はできないと思ってくれたまえ。その間に君はあの黒兎を連れて境界線を越えるのだ」
 それはつまり時間稼ぎは出来ても、完全に彼を倒すことはできないということ。純也は頭の中でそう推測した。
「いや、待てよ、あんた強ぇんだろ? 倒せるんじゃないのか?」
 今現在、八咫はグラーシャを容易くあしらい、また圧倒しているように見える。少しでも本気を出せば、グラーシャをねじ伏せることも簡単なように純也には思えた。
「守護式(ガーディアンコード)の本分は守護すること。故に私は守護式(シュゴシキ)。そのためだけの式だ。私は存在の概念を変質させることはできるが、この一本、根幹を成す守護式(コード)だけは改竄を赦されない。そうすると、私を私たらしめる基盤が消失してしまうのだよ。私は守護式(コード)を依り代として縋り付いてこの形を保つ存在なのでね。これを乱すと私が私ではなくなるということだ」
「意味分かんねぇよ」
 純也の理解力が低いわけではない。ただ八咫の会話の次元が一般人からかけ離れすぎていた。見える世界、価値観、捉え方、その全てが常軌を逸脱している。
「今は良い。時間がないのでな。さ、隙を今から挟む故、その間に少女を連れて逃げるのだ」
「時間がなくなったのはあんたの話が回りくどいせいじゃねぇの?」
 尤もな純也の意見に、八咫はただくすりと笑い、立ち上がる。はぐらかされたのだろうか。純也は顔を顰めながらも、身を翻しグラーシャへと向き直る八咫の背中を見送る。
「征け、少年よ。ここは私に任せよ。不本意だが、その少女はまだ死なせるわけにはいかない」
 最後にそれだけ言い残し、八咫と名乗る青年は蒼い影を纏い、森の奥へと消えていった。
 純也は傍らの少女に目をやる。
 悪魔と名乗った男は彼女の命を執拗に狙っていた。悪魔と互角に渡り合った蒼い青年は彼女を生かそうとした。
 一体この年端もいかない少女の双肩に何があるというのか。純也には到底予測もできない。傍目にはただの子供にしか見えないというのに、こんな華奢な存在に何ができるというのか。
 何か、関わってはいけないものに関わってしまった感触がする。
 ざらざらとした不快感が純也の胸の奥に蟠り続けていた。それはまるで炎のように揺らめき、ちりちりと心臓の底を舌のようにうねり舐める。
 乗りかかってしまった船だ。見捨てることもできない。胸の中の嫌な予感を振り払うように、純也は少女を抱き抱え行く当てもなく走り始めた。







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